不可避
「ああ、あの陶芸家の先生ですか。」
そう言って老人は畑仕事の手を止めた。
桜の季節も終わり、京は夏に向かって一歩一歩その歩みを進めている。遠くに見える山々では若葉が青く萌え、澄んだ空には雲ひとつ無い。
「お巡りはん、あの先生はなかなか難しいお人やさかいに、会うてくれはるか解かりませんえ。」
警官は警帽の下で愛想よく笑った。
少なくとも、その老人にはそう見えたろう。
「構いません、自分は短期間此方の派出所にお世話になるだけですから。村の皆さんに一応の顔見世、といったところです。」
それを聞いて老人も人好きのする笑みを浮かべた。そして顎をしゃくって道をを示す。
「ごくろうさんどすなあ。それやったら、この道をまっすぐですわ。半刻ほど行きはったらお地蔵さんの居はる二股に当たります。左に進まはったら、もう一本道ですさかいに。」
ああしんど、と言って老人は曲げた背を伸ばした。
そして示した道の先を見る。
「先生、釜には居はるはずやわ。ほれ、」
煙が上がってますやろ。
老人の眼の先にある山からは、薄く一筋の煙が上がっていた。
陶芸家、というのがこれ程世間から身を隠すのに適した商売だとは思わなかった。元来、物を作るのは嫌いではない。時間をかけて丹精に、そして心血を注げば出来の如何は別にして、まあそれなりに形になる。次から次に沸いてでる悪党どもに剣を振るう非生産的な作業に比べれば、いかに前向きなことか。加えて、芸術家というのは世間では人嫌いで通った人種だ。村や町の人間と適度に距離を保てる。我ながら良い選択をしたと思う。
己が継いだ流派が今後どうなろうと正直知ったことではない。栄えさせてやる気も義理もない。大体人間というものは自分すら救えぬ程非力なものだ。それが他人を救えるとも思えない。だから、剣客としてより陶芸家としての己の方が余程気楽だ。出来ればこのままでいたいものだ。剣客としての強さに未練など無い。
それに俺より強い奴なんて、そうそう居ねえ。つまらん。
釜から放たれる赤い焔を見つめながら、比古清十郎はそんなことを思った。
釜に器を入れてからは、なかなかその場を離れられない。時間と温度に常に気を配る。その蓄積が出来を左右する。陶芸というのは、世間が思う以上に根気と体力が要だ。
よって、そんな時分の来客は面倒迷惑この上ない。
が、そんなときに限って遣って来るのだ。招かれざる客というのは。
背後からやってくる気配に、全身の感覚を開きながら溜息をついた。
相手に隠すことを意識した気配ではない。気配を消す、ということができぬ常人か、気配を悟られようが悟られまいが仕留める自信のある者か。こればかりは、いかな比古でも対峙するまでは解からない。故に相手が動く前に先手を打たせてもらうことにした。
「生憎取り込み中でな。またにしてくれ。」
気配の歩みがひた、と止まった。途端に耳慣れた金属音。
せめて女なら、迎え甲斐もあるものだが。己の下にやって来るのは、そろいもそろって野蛮な馬鹿野郎ばかりだ。
「なに、時間は取らせんさ。貴公の弟子の事で話が聞きたい。」
「俺に弟子はおらん。餓鬼の世話は面倒だからな。」
気配の主は低く笑って、同感だ、と言った。
そしてシュ、と燐寸をする音に、軽く長い息。空気に混じる苦味と甘さ。
・・・成程、後者だな。俺を相手に一服とは、なかなかの自信家だ。
どれ、面でも拝むか。
そう思いつつ、比古は肩越しに振り返った。
そこには、背の高い痩せた警官が一人立っていた。
目深に被った警帽、襟元を軽く開けた制服。そして腰に帯びた日本刀。薄く笑みを湛えた唇に、真白な手袋に包まれた細く長い指が煙草を運ぶ。
そこにしっかと存在しているのに、影すら虚ろで実体が無い。
ずいぶんと毛色の変わったのが迷い込んできたものだ。
「・・・何者だ、と聞けば答えるか。」
「どうか、な。」
途端に空気が弾けた。吸いかけの煙草が宙に舞う。
一瞬にして間合いを詰めた警官の抜刀を、外套の下に携えた愛刀で防いだ。
鍔迫り合い。体格差を考えれば、断然比古に有利だ。
この男、できる。警官にしておくには惜しい腕だ。ならばこの間合いでの自分の不利など解かろうに。何故この男はこんな無茶をするのだ。
己の目線より若干下にいる警官を見下ろすと、警帽の下から覗くその唇は不敵に弧を描いて上がった。
「これが噂の名刀、冬月か。なかなかだな。」
「・・・人の腕より刀か。」
「貴様の腕など、試すまでも無い。」
そう言って、警官は間合いの外へ飛んだ。そしてあっさり刀を鞘へ納めた。
警帽を取り、それを人差し指に掛けてくるくると回す。現れた色素の薄い冷たい瞳が、比古を無遠慮に射た。やがて回していた帽子を小脇に抱え、再度煙草に火をつける。
ビ、と燐寸を弾く様も、なかなかに不遜だ。
「飛天の現継承者の実力。甘く見るほど、俺は阿呆ではない。」
ただ、と付け加え、ふう、と長く紫煙を吐き出す。
「せっかく来たんだ。刀くらいは拝ませてもらわねばな。」
先ほどの間合いを詰めながらの素早い抜刀はこの男が並みの剣客では無い事を如実に表している。しかし、その割りに、躊躇無く引いていく様は勝負へのこだわりの無さを示す。剣の勝負などには興味が無いということか。
剣椀を誇るだけの痴れ者ではない。剣の道を越えたところにある信念の戦いにこそ意味を見出すやからは、阿呆でないだけに厄介だ。
が、興が乗った。否。乗せられた。
・・・面白い。
比古は内心そう思った。
警官は此方を見遣るでもなく気にするでもなく、呆れたように遠い目をして言った。
「まったくあの野郎、さっさと京へ行けとあれ程言ったのに、一体何処で油売っていやがるのか・・・。」
「お前あの馬鹿の知り合いか。」
比古のその言葉に、警官は軽く片方の眉を上げた。珍しい色をした瞳がきらりと輝く。
「どの馬鹿だ?最近周りに多くてな。」
どうやらこの男は一筋縄ではいかないらしい。こういった輩は、いくら言葉を紡いでも、のらりくらりとかわすだけだ。率直なのが案外、一番効果が上がる。
比古は溜息をつきながら言った。
「俺の馬鹿弟子だよ。」
「・・・弟子は居ないんじゃなかったのか?」
「破門した。だから言ったろう、今、弟子は居ねえと。」
嘘はついてねえぞ。そう言ってにやりと笑う比古を警官は、不思議な視線で見つめて、返すように喉の奥で笑った。
「そのうち此処へ来るだろうさ。俺の勘だがな。」
さて、と吸い終えた煙草を弾いて躊躇無く踵を返す。
断りも無くやって来て。好き放題やらかして、勝手に帰っていく。無礼千万この上ないが、我道を貫くその様が見ていて小気味良い程だ。その背中に声を掛ける。
「おい、名前くらい名乗っていけ。」
「藤田五郎。見ての通り警官だ。」
「そんな戯言は聞いちゃいねえよ。」
「どう取ろうが、貴様の勝手だ。」
馬鹿弟子とやらが万一此処に遣って来たら、阿呆とっとと顔を出せ、と伝えろ。
麓の駐在所に話をつけてあるから、何かあったらそこへ連絡を寄越せ。
そう言って、その警官は山を降りて行った。
後日、久方ぶりに村に入った比古は、一人の老人にこう問われた。
あのお巡りはんは、ちゃんと先生にご挨拶にいかはったかね、と。
「ああ、久々に骨の有る奴だったな。」
珍しく笑って答える比古を老人は不思議そうに眺めた。
はて、どちらかというと物腰の柔らかい、線の細い人やったと思ったんやけど。
そう首を傾げて呟く老人に、そうかいと答える。
そうだったかもしれんし、そうでなかったかもしれん。
何れにせよ、今時なかなか会えねえ男だ、あれは。
焼きあがった器は、一瞬目を離したことが災いをしたのか、比古の目算より若干飴の入った色味になった。捨ててしまうかとも考えたが、見れば見るほど、その色目が不思議と味があって良い。それは、あの時垣間見た、琥珀の瞳を思わせた。
これは霞の中に浮く月の色だ。月の器で飲む酒は一際旨いに違いない。
いいぜ、彼奴は面白い。
比古は初夏の空に、再度そう呟いた。
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