必然
果たしてその男が予告したとおり、俺の馬鹿弟子はやって来た。
来て早々、奥義を伝授して欲しいとぬかしやがる。俺は笑った。
徹底的に意見を違えて出て行った弟子に、何で奥義を教えてやる必要がある。そんなつもりは毛頭なかった。もともと、奥義など、誰にも教えてやるつもりは無かったのだ。
剣の時代は終わった。この流儀も、俺の代で仕舞いだと。
しかし、意外に弟子は引かなかった。思えば、この頑固さが原因で俺の元を去っていたのだった。当然といえば当然の成り行きに、半ば賭けのような提案をした。俺に一撃当てられたら、奥義をくれてやる、と。
それ以来、この馬鹿は遮二無二俺と立ち合っている。思ったとおり、剣椀だけでなく、精神も衰えている。剣椀は回復できるが、心の方は本人次第だ。見る限りそっちの方が重症だ。目の前で伸びている弟子を見下ろしながらそう思った。
当分起きないだろう。その程度にのしてやったからな。
久々の静寂を味わおうと、小屋から酒と器を出す。いい塩梅に、朧月が中天に浮いている。それだけで、酒を呑むには十分な理由だ。
どこかで何かの鳥が鳴いているそれも、また風情があって良い。
手の中にある器は、霞の中に浮かぶ月の色だ。取り立てて出来が良いわけではないのだが、何故か執着してしまう。そんな作品が過去にもあった。そして、それは偶然の産物というやつで、二度とは同じものが出来ない。出来ないと解かっていて、それでも再度、と思う。芸術家としては損な性質だ。執着は創造を停滞させる。それが重々解っているから、やはり、捨ててしまうべきだったかと思う。が、そうもできないのだから仕方ない。
この色に酔ったのだ。そのように捉える事にした。
同じ色の月が、川面に姿を落としてゆらりゆらりと揺れている。
それを肴にしばらく呑んだが、それにも些か飽きてきたので、伸びている弟子に向かって言った。
「お前を訪ねて人が来た。」
馬鹿が、分かり易く狼狽してがばりと顔を上げる。
身に覚えがありすぎる、という奴だな。
「警官の為りはしていたがな、あれはまともな警官じゃあねえな。」
「・・・斎藤。」
「いや、そんな名前じゃなかったな。藤田、とか、なんとか。」
「今はそう名乗っているようですがね。」
「アレは、何だ。」
そう問うと、弟子は何故か小さく笑った。
「・・・珍しい。」
「あ?」
「いや、師匠が他人に興味をもつなんて、珍しいな、と。」
「そりゃおめえ、あんな面白い奴、早々拝めるモンじゃねえ。」
「面白い?あの男が??」
弟子は横たえた体を起し、俺の前に胡坐をかいた。そして、言った。
「新撰組の生き残りですよ。」
ああ、そうだったか。弟子の言葉に理由もなく納得した。改めて聞いてみると、そんな気がする奴だった。
「で、その生き残りが、明治政府で何してやがる?」
「密偵をしているようですね。」
「密偵、ねえ・・・。」
しっくり来ない。誰かに仕えている、というような殊勝な男には見えなかった。俺の言質を正しく理解したのか、弟子が言った。
「もっとも、それも一つの手段に過ぎないのでしょうがね。」
「手段?何の?」
「あの男自身の正義の為、だと。」
その言葉を聞いて、俺は笑った。
「正義、か。今時そんな言葉の為に生きている奴がいるとしたら、よっぽど物好きか呆れる馬鹿かどちらかだな。」
「でも当人は本気みたいですがね。」
「・・・酔狂なことだな。」
「俺も、本気ですよ。」
「お前の馬鹿は今に始まったことじゃねえよ。」
「・・・せめて物好きの方に入れてもらえませんか。」
「お前ぇは、正真正銘、俺の自慢の馬鹿弟子だ。物好きなんて立派なもんじゃねえ。」
鋭く眼光を光らせて、ゆらりと立ち上がる弟子を杯越しに見る。
何かの為に身を切ってまで愚直に生きるのは、特に正義なんてあやふやなものの為に血を流す奴は、馬鹿だ。
正義を貫くには信念がいる。信念を持つためには、強くあらねばならない。強くあるためには、痛みを知らなくてはならない。痛みを理解する為には、他に優しくなくてはならない。常に全てを満たして完璧でなくては正義ではない。
それは、時に恐ろしく残酷だ。
何故なら、人間は弱く、曖昧で、不完全なものだから。その人間が作り出す世も、その中で存在する正義も、当然理不尽で脆弱なものなのだ。
だから、人は人を救えない。人は永遠に救われない。そういう性の動物なのだと俺は結論を出して以来、この山奥に隠棲している。
渾身の力を込めて打ち込まれる白刃を軽くいなして返すと、轟、と音を立てて弟子の身体は吹っ飛んだ。その呼吸音が激しくなる。土煙の中から立ち上がった、満身創痍の、それでも失われない光。
「俺は、・・・諦めません。諦めない、と誓った。だから・・・。」
そう言って、弟子は再度気をやった。その姿を見下ろしながら、思う。
お前は誰より優しい奴だから、きっと抱えられないほどの負を背負う。だから、俺の取っておきがお前の杖になれば、と。そう思って、俺はお前を弟子にしたんだが・・・な。
お前を傷つけるためでも、身の丈を越えた業を背負わせるためでもなかったのに。
世の理不尽を片目閉じてやり過ごす。それが出来ねば、生き辛いだろうに。
変えられぬ過去への思考が堂々巡りするのに嫌気が差して、溜息を吐く。呼応するように、水面の月の輪郭が朧になった。その姿に視線を落とす。そして器に再度酒を注ぎ、一気に呷った。
『諦めない。』
弟子の言った言葉が何度も頭の中を巡った。正義を、人を、そしておそらく自分自身を諦めない。
己には二度となれないものに、弟子はなろうとしている。おそらく此処に来たあの男もそうだ。だからなのか、と自嘲する。落とした視線の先の月は、もうその水に溶けてしまったようだった。
片目を瞑ってやり過ごせない者は、見なくてよいものを見、知らなくてよいことを知り、結果その身と心を傷つける。
影すら朧げなあの男の月色の双瞳も、おそらく己のようにこの世の醜悪を反吐がでるほど見て来たに違いないのだ。それでも、諦めないらしい。あの男をそう仕立て上げたのは、一体何なのか。
出来ない何かに執着するのは、悪い癖だ。それは、俺自身を停滞させる。だが、否定できないその弱さも己が一部だと知っている。そんなほろ苦さを久しぶりに味わう気がした。それは他人と交わりさえしなければ忘れていられるものだが、同時に生を実感させるから不思議だ。
中天の雲の向こうに在る、月の残照を見上げる。其処には何の形も答えも無い。明瞭でなく単純でないそれは、人の心と同じかと、らしくないことを考える。
それでも、己には理由が必要だ。だから。
酔ったのだと、そう捉えることにした。
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