暁の稜線
『俺は、近々死ぬらしい。』
そう言ってあっけらかんと笑った瞳の奥の闇は、寒気がするほど澄んでいた。
疑いなく最強であった盟友。己では一生適わぬその剣椀が眩しかった。剣を志す一人として、率直に惹かれたのだと思う。頭で何かを思う前に、その剣筋に目を取られるのだからどうしようもない。尊敬しうる技量の男であり、また、背中を任せて安心の出来る唯一の存在だった。
しかしその本人は、剣の強さなど求めてはいなかった。慕う者と、共にあることだけがその男の全てだった。だから、あんなにも強く、あんなにも脆かった。表裏一体の危うい均衡を解っていながら何もできぬ己が、許せなかった。
『好きにしろ。お前ぇは俺の側に居ねえほうがいい。』
白皙をゆがめて放たれた其れは、突き放す言葉の強さとは裏腹に寂寥に満たされている。
いっそ、お前は役に立たぬ、消えてしまえと言ってくれれば良いのだ。何でもそつ無くこなすくせに、彼の人はそんな簡単なことができない。
鬼と呼ばれて恐れられたその人が、最後の最後で己を立ててくれたのだと、痛いほど解っていた。だが、その人は其れを中途半端にしか隠せない。そんな不器用さが悲しく切ない。そしてそれに黙って添うてやれぬ己が憎かった。
二人の眼はとても黒く澄んでいて、悲しく狡い色をしていた。
己を捕まえた手はあれ程に力強かったのに、肝心な時には優しさという衣で纏った決別を、抗えぬ弱さを見せながら言い渡す。
あの黒色は残酷でそれでいて甘いから危うい。温かい密度とは裏腹に底の知れぬ恐怖を含むそれに、酔いたいとすら思わせる。そのくせ共に堕ちてはくれない。
そんな勝手な奴らは、嫌いだ。
俺の心の凪を乱す奴らは、嫌いだ。
それにもう、終わったはずなのだ。
俺を現の河原に置いて、勝手に逝ってしまったのだ。
忍び寄る朝の気配に軽く眼をあけると、もう夜の闇はその裾を翻した時間だった。
日中はむせ返るように暑くなる京も、暁はひんやりとした風が心地よい。
窓の向こうの山々だけが未だに暗く沈んでいるが、頂く空は既に白蒼に姿を変えている。
白んでいくその様を眺めつつ、身を沈めた椅子から立ち上がり、斎藤は窓辺で煙草に火を点けた。
『奥義の伝授、開始。』
放った駒の一つから齎された紙片を、軽く指先で摘み上げぼんやりと読み返す。
己の調べに間違いがなければ、あの流派の奥義伝授は死をもってなされる。生き残るのは一人だけ。伝授がなったのであれば、あの不可思議な男はこの世にはもう存在していないことになる。
(・・・それがどうした。)
深く吸い込んだ紫煙は、じわじわと胸と思考を染めていく。
そうでなければ、困る。宿敵であった赤毛の男に、是が非でも生き残ってもらわねばならぬ。
しかし、どう考えてもあの現継承者が屈するとは思えない。言いようのないほどに厄介な色を宿した男は、そうそうの事で死にはしないだろう。それは理由の見出せない確信だった。それとも、これは期待という名の理不尽なのか。何れにせよ、そう己に思わせる、奇妙な男だった。
取り留めのない思考を振り払うように軽く頭を振る。乱れた髪が頬骨に触れるのを、掻き上げて溜息をついた。
射干玉の双眸に焔を宿す類の人間を、斎藤は過去に2人知っている。どちらも、この世には存在しない。
だからもう二度と、あの色に出くわすことはないと思っていたのだ。そしてどこか安心していた。有り難いことだとすら思っていた。そう思わせるほど、その二人の存在は様々な意味で強烈だった。
だが過日会ったあの男の瞳に、斎藤は同じ消えぬ焔を見出していた。それは、懐かしくも苦く、不思議な感慨を持って胸の奥を掻いた。そして、あれは同じ類の人間だと認めざるを得なかった。未だ己に色濃く影を残す、あの迷惑千万な男達と。
(嫌な奴だ。)
睨むように霞の向こうの山影に目を遣った。その影のどこかに、既に成された運命の砕けた破片の一つがあるはずだった。そして、その欠片がこれから数日間の己の命運を左右する。賽は投げられたのだ。
(・・・まあ、どちらが生きて残ったとしても、)
行く末で待つのは、血が滾る程に熱い極上の修羅場。
そう胸中で呟いて、窓枠に身を預けつつ紫煙を高く吐き出す。
視線の先の山の稜線にぼつりと点状の光が灯ると、次第に其れが重なるように左右に広がり、世界に朝を告げる。それは、新しい一日の始まりでもあり、一つの時間の流れを断ち切る一瞬でもある。
「精々、俺を愉しませろ。」
口角を軽く上げつつ不遜に呟いて、昇る朝日を斜に迎える。
朝焼けに散った紫煙が描いた幻のような軌跡が、嘲笑うように風に揺れて消えた。
designed by {neut}