心音



夜を暗いと言う奴は、夜を知らないか、言葉遊びもできぬ無粋者だ。

山道とさえ言えないような獣道を、勝手知ったる様子で歩を進める男は、木々の向こうの空をちらりと見上げた。
天気さえ良ければ天には星も月も在る。暗いのはそれらの光が作り出す陰であって、夜そのものは時に白くさえある。漆黒の中でのみ存在し得るその白は、何より清く潔い。そんなものを愛でながら、酒を呑むのが無性に好きだ。特に今日のような日は、独りで静かに呑みたい。そんなことを思いながら、比古は懐から器を取り出す。手の中の月色はあの夏の日のままだ。しかし、その本体は正真正銘霞の向こうに消えてしまったらしい。消えた、というのがまたあの男らしいと、比古は唇を歪めた。それは微笑でも落胆でもない、微妙な軌跡をその上に落とした。
山頂近くに在る、幾分開けた場所を目指して歩き続ける。其処の藤が盛りのはずだ。


帰還した弟子とその仲間は、満身創痍を絵に描いたような状態だった。迎えた者たちは、男達の生還を喜んだのもつかの間、直ぐにその傷に驚き慌てふためいた。特に弟子の様態は悪く意識すら時折遠退く始末で、待っていた娘はたまらず涙をこぼした。
もう一人の威勢の良い小娘は、長年想う男が戻った喜びを身体いっぱい表現し、おかげで折れた肋骨の痛みに再度見舞われることになった。その姿は、笑わぬ男の唇に柔らかさをもたらし、それが、その男の帰還を待ち望んでいた者達を和ませた。一瞬の安らぎが、その過ぎ去った修羅場を包んだ。

そんな中、痛む胸を押さえながらその小娘がふと言った。アイツはどうしたの、と。

一番若い、右手に大怪我をした男が唇を噛んで目を伏せた。娘は痛みをこらえながら再度問うた。アイツはどうしたの。その言葉は、最悪の予想に微かに震えていた。

『アイツは、・・・無理だった。』

そう言って、若い男は訥々と語った。
最終局面。予想もしなかった終焉と渦巻く狂気。それによる爆発と瓦解。アイツと呼ばれた男が開いた血路は、皮肉にもその当人を生の対岸に押しやった。
にもかかわらず、その男は余裕綽々に笑って一服し、自ら火の中に消えたという。
そう聞いたとき、比古は初夏の一瞬の邂逅を思った。間違いない、彼奴だ。

全てを聞き終えて、流れる沈黙の中、嘘だ、と小娘は呟いた。
アタシはそんなの認めない。アイツが、死んじゃうわけがない、と。
その肩を軽く叩いて、比古はその場を後にした。そこで、己が出来ることは何も無く、ただ只管、妙に山の静寂が恋しかった。


在るものはいつか消滅する。在って、在り続けるものなど存在しない。それが万物に共通の理なのだ。誰もその理には逆らえぬし、第一あの男は、そんなことは重々解かって生きていたはずだ。其処まで考えてあることに思いが至って自嘲する。何も知らないはずなのに、何故だか解かるような気がする。そんなことを思わせる、面白い男だった。
失われてしまったらしいその存在に、惜しいという想いは不思議とない。それよりも、やはり、という感慨のほうが深い。
炎の中に自ら消え、その生と死すら曖昧にしてしまう。あの男らしい幕切れだと思った。
だから惜しくは無い。ただ、欠損のような虚しい空洞を否定しきれないでいる。そして、其の理由を解かりたくない。

空には極上の満月。それだけが俺の真実だ。
それ以外はすべて曖昧なままで良い。この世とは、人とは、きっとそんなものだろう。
今宵は月見酒といきたいものだ。



計算し尽くしたように、己の道筋に不遜に横たわる黒い影。通れるものなら、通ってみろ、とでも言いたいのか。
見下ろした長身は、身じろぎすらしない。その薄い身体を地に横たえ、草木のように微かな呼吸をしている。纏う羅卒服は、血と泥に塗れてどす黒くなり、もはや地と同化しているようだ。

「・・・おい。」

問うた。が、答えは、ない。
ち、と悪態をつく。つくづく面倒なことだ。こんな厄介ごとに巻き込まれないために、下手な陶芸などやって、わざわざ山奥に住んでいるというのに。

取って付けたような其れを思いながら、眩暈がするほど時の女神の悪戯を期待する己に気付く。何処かでそうであることを、そしてその反対側で逆の事を思っているらしい自分が可笑しい。矛盾だ。そして、それもまた真実だと思い知らされる。

「生きてるか。」

再度、そう問いかけて、膝を折る。近づいてその横たわる顔を覗き込むと、やはり知った顔だ。つくづく間の悪いことだ。現れるなら、せめて呑んでからにしやがれ。迎えるこちらの気分も違うというものなのだ。

が、それがどうやら己等に定められた宿運といったようなものらしい。かなり歪んだ皮肉に満ちているようだが、これ以上、相応しい巡り合わせも無いだろう。難儀なことだと、そう独り言ちながら、横たわる男の痩せた頬を軽く叩いた。
霞に浮かんだ月のような色をした珍しい瞳は、眼瞼に覆われて今日はその姿を見せない。
見れば、胸部と脚に刀傷。それも、かなり深い。出血が治まらないのか、その肌は気味が悪いほどに蒼白だ。
ち、と再度、比古は誰に聞かせるでもなく舌打ちをする。あまり時間は無さそうだ。

その時、呼応するように軽く瞼が揺れた。そして、その奥からゆっくりと一対の月が姿を現す。
それは、何かを見ているようで何も映してはいない。見たくも無いものを、進んで山ほど見てきた眼だ。意識が混濁しているのか意志を示さぬそれは、見ているこちらが辛い程、澄んだ色をしていた。そして、これがきっとこの男の真実なのだ。

「気付いたか。」

声をかけると、反応するように双眸が比古を捕らえ焦点を結ぶ。
軽く眉間に皴をよせ、唇が微かに動いたが、音にならぬほど小さかった。
なんだ、と言って比古は屈みこむ。今度ははっきりと聞こえた。

「・・・や、かまし・・・い。」

男の蒼白な唇がそう紡ぐと同時に、犬でも追い払うように軽く上がった手が振られる。
まるで昼寝を起されたような、そんな不機嫌極まりない面のまま、その男はまた意識を手放した。
戻った静寂の中で、耳に届いたその言葉を理解するまでに、些か時間を要した。

呆気に取られる、とはこのことだ。
己が此処で見放せば、この男は確実に死ぬ。それが、わからぬはずはない。
比古は笑った。心底笑った。大した奴だ。やはり此奴は面白い。

「・・・上等だ。」

そう言って、比古は男を見下ろした。

俺が、死なせてやらねぇ。
もうお前は、勝手に死ねる身じゃないんだぜ。

そう思う比古の脳裏に、京で見た光景が浮かぶ。
唇を噛んで、至らなさへの憤りをかみ殺す若者。
忘れてなんかやらない、と呟いた小娘の青い頬。
混濁する意識の中で、落胆と後悔の色を見せた不遜の弟子。
無感動のようで、おそらく誰より何かを感じているだろう静かな長身。

「・・・目の前で死なれちゃ、流石に目覚めが悪ぃんだよ。」

そんな理由なら、いいだろう。
比古は、血に濡れた男を軽々とその肩に担ぎ上げ、山を降りる。
それを見届けたように、天空に輝く満月がその身を白くたなびく雲の谷間に落とし、世界が境界線の見えない混沌に身を伏せた。

静寂の中に、二人分の心音と、一人分の足音が刻まれる。
懐に忍ばせた月色の器は、その日を境に使われることが無くなった。







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