夜明け



額に冷たい感触を感じて目を開けると、中途半端に遮られている視界があった。切り取られた風景のように見える断片的な情報で、己はどこかの室内に仰向けで寝かされているのだと解った。
徐々にはっきりしていく意識の中で、記憶が緩慢に蘇る。それらは無作為に、時系列を無視してやってくる。10年前の事、昨日の事、3ヶ月前の事、先程まで見ていた夢の事・・・。脳は、己の意識が届かないものすら記憶しているらしい。思い出す事の脈絡の無さが、置かれた現実と反比例して悲しく可笑しい。

京都、葵屋。
己は其処へ戻ってきたのだと、ようやく理解した頃に視界を遮っていた何かが取り払われた。
その何かが、己の横に座る女の掌であったと気付くまでに、また若干の時間を要した。

「まだ熱が下がらないわね。」

傷の治りは早そうだけど、と女は薬箱の中を漁りながら言う。長い髪がその横顔を覆って入るが、間違いなく己の知っている女だ。
その女の事なら、大概のことは知っている。ついこの間まで、己は監視する者、この女は監視される者であった。が、どうやら過去の力関係は、その様相を変えてしまったらしい。運命の皮肉を、熱で動かぬ体と共に己は黙って受け入れた。

「因果応報、ってね。」

薬籠の中から取り出した粉末を眺めながら女は笑った。

「立場が変わった、ってことよ。今は、私があんたを監視してるの。手間かけさせないでね。」
「・・・世話になる。」
「殊勝で結構。あの馬鹿に見習わせたいわ。」

唇に笑みを残しつつ軽く顎を上げて、そう女は言った。
薬研を使う音だけが、静かに室内を流れる。
其れを聞きながら、この女を監視していた日々を思った。あの時も、女は四六時中薬研と向き合っていた。
その作業から開放されるたびに、女は監禁されていた自室の高窓を見上げて放心していた。その双眸から、雫が落ちなくなって、感情が徐々に欠落して行って、その様はまるで己の魂の変容を鏡でみるようだった。

だが、それも、今になって初めて思いの至る事だ。その時は、監視の対象者の変容など、どうでもよかった。見るだけの存在と、見つめられるだけの存在。
女は生きる為に、悪事と解ってその手を染めた。
己は生きる理由の為に、手段を選ばなかった。
両者の選択の結果が、たまたま交差しただけ。よくある話だ。
それだけのことだった。

それなのに、己の唇が意思を離れたところで今更言葉を紡ごうとする。
何を言えばいいのか解らぬが、何かを言わねばならぬ気がする。一体この衝動は、何だ。
謝罪でも、悔恨でもない、その何かが、押しやった記憶の堆積から言葉になって精製される。

名を、呼びたい。
その理由を見出せぬまま混乱したが、思考に反して肉体が動く。軽く息を吸った瞬間、女が微かに身じろいだ。

「・・・言わないで。」

それは強くも無く弱くも無い、至極穏やかな口調だったが、明確な拒絶が含まれていた。
薬種が、ごり、と嫌な音を立てて薬研の下で弾け飛んだ。

「舞台は不本意な役者で一杯。あんたも私も、アレを好きで演じてたわけじゃない。」

一定の速度で滑っていた薬研が止まった。
調合の手を止め、薬包紙に薬を取り分けている。その手つきも、見慣れてしまった仕草のままだ。

「確かに暗い過去ね。でも、どんなに嫌で醜い過去でも、消すことも変えることもできないわ。一生抱えていくしかない。だから、」

アンタ独りで、楽にはさせない。
勝手に死んだりさせないわよ。どんなことをしたって、生かしてみせるわ。

「覚悟なさい。」

そう言って、女は己に薬を飲ませると、音も立てずに出て行った。

その姿を視界の端で見送って、残された枕元の盆を見る。その上には、調合された薬の包みと、歪な折り鶴が静かに佇んでいた。己の無事を祈っていた娘の、強い眼差しが蘇る。

名を、呼びたい。
その呼びたい名とは、何であったろう。己は、誰の名を呼びたかったのだろう。
己の明快で単純な世界はその日終焉を迎えた。






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