対岸の孤独
纏わり付くような夜の湿気に耐えかねて出た縁側で、四乃森はそれに出くわした。
それは、灯りのない縁側の端に軽く腰を下ろし、ぼんやりと庭を見ている。庭を挟んで向こうには、この屋敷の大座敷があり、その中では毎日のように快気祝い、祝勝記念などの名目で宴会が続けられているらしい。その明るさと対照的に、それの佇むこちら側は闇に沈んでいる。
それは、医者だということは昔から知っている。会津の医聖とよばれた男の娘だということも知っている。阿片密造に関わっていたことは、この身が一番よく知っている。
しかし、それが一つの人格を持ち、喜怒哀楽を持ち、放り出しようのない過去の事実をかみ締めて生きている生身の人間だということに気が付いたのはごく最近の事だ。
そして、それが女だということも。
昔、どうでもいいと感じていたことの全てが、どうしようもなく重要なことなのかも知れぬと冷めた女の横顔を見ながら思う。何故そう思うのかは解らない。ただ、此処に戻って以来、全く別の世界が始まったような気がしている。
「・・・起きたの。」
此の方に視線もやらず唐突に呟いたその女に、思考が遮られた。
「ま、起きれるようになったということは、良いことね。」
「・・・暑い。」
「当たり前でしょ、夏なんだから。」
何を今更、といった態で女は言う。正座をやや崩すようにして、半身を柱に預けている。
「何ボケっとつったってるの。行くか戻るかしなさいよ。」
返すべき言葉が見つからない時は、黙っている方が楽だ。近づいて、己も柱に身を預け庭越しの灯りを眺めた。障子に映る影が、中の人々の宴の様子を時折示している。歌い、舞い、酒を呑んで笑いあう。その漏れ聞こえる音とは裏腹の静寂の中で、女は独りで杯を傾けていた。戯れに、聞いてみる。
「お前は此処で何をしている。」
「宴会。」
「・・・此処で、か。」
「楽しいわよ。」
そう言いつつ、視線の先の灯りを眺め、女はうっとりと笑う。
一間ほどの間があるものの、縁側に座る女の微かに上気した頬が薄明かりに見て取れた。見れば、空いた銚子が二本ほど転がっている。
「あんたも、どう?どうせ暇でしょ。」
投げつけるように言われた言葉には答えず、更に問う。
「・・・何故、此処なんだ。」
「だって、此処の方が楽しいのよ」
女は心底可笑しそうに笑う。くすくすと、さも楽しそうに。
だが、それは取り返しが付かないほど乾いているような気もする。そしてそんな気がする理由はまた、わからない。
黙る四乃森に、女はちらりと目を遣った。そして、杯の酒を一気にあおった。
「あそこに、」
月光に青白く光る手が、つ、とあがり、闇に浮かんだ宴の明かりを指し示す。
「あたしが望んだ全てがあるの。信頼できる、愛しい人達。温かい空気。おいしい食事。なにもかも・・・ここ数年、とんとご無沙汰のものばかりよ。」
「なら、それを思う存分楽しめばよい。」
「・・・馬鹿ねえ。」
失笑を浮かべながら溜息をついて言う。そして、どういったら解るかしらねと呟いて、女は考え込んだ。四乃森は静かにその言葉を待つ。
「例えばね・・・、ここにおいしいお菓子がある。あんたはそれを毎日食べる。何の疑問も持たずに、ね。」
庭先で微かに鳴く虫が、時折女の言葉に乗る。ちりり、ちりりと物悲しく響くその音と、女の声は何処か似ていた。女は続けた。
「そして、ある日それが無くなる。泣いても叫んでも、どんなに望んでもお菓子は二度とあんたの元にはやってこない。理由なんて無いの、あんた以外の全ての人がそのお菓子を手に入れても、ただ、あんたの口にだけは入らない。それは戻ってこない。決定事項なの。そういう宿運といってもいいかもね。だから、あんたはそのお菓子の甘さを忘れようと足掻く。必死にね。覚えていれば、乾くだけだから。」
解るかしら、と問うて己を見上げる女に、四乃森は軽く頷いた。
「さて、今ここに一人の子供が居るとする。あんたの手の中に、お菓子があるとする。・・・あんた、それをその子にやれる?」
女の射干玉の瞳が、徐々にその黒を深めていく。それは深く、底の無い沼に落ちていくようだ。その黒を見つめながら、あることを考える。理論的でなく、実証的でない、それでも何より強い確信と共に。
おそらくこの女は、笑いながら泣いている。
涙をこぼせぬその双眸で、静かに泣いているのだ、と。
乾いた瞳が笑みを湛える。
それが、穏やかであればあるほど、見つめる己の何処かが痛む。
だが、その痛みの出所はまだ曖昧だ。その、昔は存在しなかった曖昧さが四乃森に沈黙を強いている。
「お菓子の甘さを、その子はきっと忘れないわ。もっともっとと思うでしょう。昔のあんたと同じようにね。でも、あんたはもう知っている。その甘さはいつ理不尽に消えてしまうか解らないものなのよ。」
女は長い髪を片手でかきあげ、呟いた。
「ねえ、どちらがその子に親切かしら。」
手の中の甘さを与えることと。
手の中の甘さを与えないことと。
「・・・それが、お前が此処にいることと関係あるのか。」
「大いに、ね。」
「・・・。」
「解ったら、教えて頂戴。・・・あたしも答えが知りたいわ。」
そこまで言うと、ああ、酔ったわねえ、と呟いて、女は立ち上がる。
ふらつく身体を返して背を向けると、その黒髪だけがその身に従う。まるで女のを守るように、抱きしめるように。そして温かい闇に導くように。
見えない涙は止まらない。おそらく、永久にそうなのだ。独りで肩を抱き、その深淵で息をする。それが、この女が選んだ道なのだろうと思う。だからこそ、問わずにはいられない。
「何処へいく。」
「あんたにはもう関係ないところよ。」
振り向きもせず、そう言って闇に沈んだ廊下をゆるゆると進んだ女は、つとその歩みを止めた。そして肩越しに振り返り、ぽつりと聞いた。
「・・・あんたは?」
女の低い声が、暗がりを流れる。
「あんたは、どうするの。四乃森蒼紫。」
「・・・さあな。解らん。」
「面倒くさい男ね、あんた。じゃあ、こう聞くわ。」
軽く息を吸い込む音と、きっぱりとした、聞き間違える可能性も無い問い。
「あんたは、どうしたいの。」
「・・・俺は、」
俺は、一体どうしたいのか。
思いもしなかった問いに、思考が完全に停止する。そして、視線が闇の中の女の瞳を求めて彷徨う。一瞬のような永遠のような時が流れ、そして何もなかったかのように、女が再度進み始める。軽い溜息がそれに続く。
「・・・馬鹿。」
震えるその声は、男の耳には届かない。見えない女の涙はその行き場所を失う。
そして今夜も、二人は混沌の闇の果てで眠る。
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