春はなほ
朝番明けの斎藤が自室に戻ると、珍しくその男は既に起きだしていた。布団も片付けられ、身なりもそれなりに整っているところを見ると、己が出立してまもなく起床したらしい。
昨夜の夜番を勤めていたのだから、当然まだ寝ていると思っていた。何時もの寝汚さと往生際悪く布団にしがみつく様を考えると、奇跡のような光景だと斎藤は思った。
そう思われている当人は、そうと知ってか知らずか、斎藤に背を向けたまま寝転がり、肩肘をついて草紙を繰っている。どうせまともに読んではいないのだろうが、かといってすることもないのだろう。眠そうな眼で文字をつらつらと追っているに違いない。
同室とはいえ、大の男が二人、それほど話すこともない。黙って隊服から着替えをする斎藤に、しばらくして沖田が声をかける。
「どうだった。」
「特には。」
「よかった。」
「ああ。」
それだけで全てが事足りた。
草紙を繰る音と、衣擦れだけが気まぐれに囁かれる鳥の声と共に室内を流れた。
京は、花見の喧騒も一息ついて、宴の後の気だるさのような空気を纏っている。花曇と呼ばれる今日の空模様が、今この街に最も相応しいように思える、奇妙に静かな朝だった。
着替えを済ませた斎藤が、ふと窓際の文机に眼をやる。
其処には、男所帯のこの部屋には似つかわしくない竹の一輪挿しに収まった菖蒲が、その蒼をひっそりと咲かせていた。
「お礼。」
この部屋にこのようなものはなかった。そう思いながら菖蒲を見つめる斎藤を振り向きもせず、沖田が言った。
「この間の。下手な歌を聞かせちゃったからなあ・・・。それに・・・。」
草紙を捲る音が、ぱらりと続いた。
「忘れてくれ。な。」
その声は、奇妙に明るく、そして低く澄んでいた。あの時のように。
何を、とは沖田は言わなかった。が、言わんとすることが斎藤にはぼんやりと解かった。そしてこういったことは、はっきり解かる必要がない、ということも察していた。だから、何も言わなかった。沖田も、返事は期待していない。
ただ、それだけで事足りるのだ。二人はいつもそうだった。
鳥が時折その声を放つだけの一時の静寂の後、かさり、という音がした。自分の背後に座った斎藤が、何かを畳みの上に置いたらしい、と背中でその音を聞きながら沖田は思った。
斎藤はしばらく何も言わなかった。が、やああって言った。
「礼だ。」
沖田は、何のとは聞かなかった。こういう事は、聞かなくてもよいのだということを知っていた。
そして、まぶたの裏に、仏頂面の上を漂う一対の愚直な月を思った。
「・・・茶を貰ってくる。」
ああ、と沖田は答えた。草紙から眼を上げ、ごろりと仰向けになる。立ち上がった斎藤を見上げると、金色の月はまっすぐに沖田を見下ろしていた。これを斬れ、と言われる日が来なければいいと、そんなことを思った。
「島田さんにも声をかけてこよう。」
「あの人も、目がないからなあ・・・。」
斎藤の声は、相変わらず愛想がない。が、目がないといわれた人物と己の、斎藤には理解しがたい趣向を思ったのか、少し口元をほころばせた。
しかしそれも、ほんの一瞬の事だった。斎藤は、粛としたいつもの歩調で部屋を後にする。
沖田は両手を頭の下で組み、天井を見上げて無言で笑った。
畳の上に置かれた、竹の皮の包みからは、終わった春の桜の香りがした。
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