下駄箱の混迷



期待することは、予想する快楽と似ている。


午後から雨になった。
日直の仕事を済ませたら、バケツをひっくり返したような雨脚はもう遠のいてはいたけれど、それでもしとしとと小さな音を奏でながら 雨が降っていた。上靴の鳴る薄暗い校内に、人影はない。思った以上に遅くなってしまったのは、同じ日直の明神君が、 仕事を放り出してどこかへ行ってしまったからだ。

「三条、頼むな!」

HRが終わってすぐ、彼はそう行って教室を飛び出していった。サッカー部の練習は相当にキツイことで有名なのだが、それでもあの元気 を保っていられるというのは驚きだ。
いずれにせよ、私には意義を唱える間もなかった。え、と顔をあげた時には、彼の半袖の白いシャツから伸びた日に 焼けた腕が、ちらりと見えただけ。
いいよ、と口の中で小さく呟く。生まれなかった言葉をそのまま雨に向けると、 抱えた淡い期待が宙ぶらりんのままゆらり、と揺れた。希望的観測は、外れるものだ。今日の天気予報のように。



大学の付属であるこの高校には、1500人近くの生徒がいる。転校してきた時、まず校舎の入り口で迷った。 あまりに広くて、自分の下駄箱が何処かわからなかったのだ。それも、もう1年前のことで、今では自動的に自分の行くべきところを探し 当てられるのだか、薄暗い所為かそれともあまりに人気がない所為か、その日私は自分の下駄箱を探し当てるのに少し手間取った。
見慣れた古い鉄製の扉を開けると、鉄特有の錆びた匂いと軋んだ音が思いがけず大きく鳴った。学校指定の黒いローファーが、 そこで静かに私を待っている。 身長より少し高いところにあるそれに手を伸ばした時、ふと視界の端に長い髪が揺れたのが目に止まった。

真っ黒の長い髪を風に揺らして、女の人が立っている。開け放した大きな入り口の端で、身を預けるようにしているその人は、 化学の高荷先生だ。優しく降りしきる雨に向き合っているその姿は、外より暗いこちら側から見ると、映画の一幕のようにさえ見えた。 物憂げに立ち尽くす後姿の向こうには、雨に芽吹く若葉の青が風にあわせて小さく揺れていた。それすらも、その人の為に全て用意された 効果のように見える。
先生は、綺麗な人だ。女の私がそう思うくらいだから、先生は男子生徒にも人気がある。いつだったか、神谷先生が、「綺麗よねえ…。」 と溜息混じりに呟くのを聞いてしまったことすらある。その時は、いつも明るい先生が何故だかすごくしゅんとして見えて、なんだか 可愛らしかったのを覚えている。女子に人気なのは神谷先生ですよ、と言ってあげようかと思ったくらいだ。 でも、それはそれで逆効果かな、と思って止めたのだ。

(傘…忘れちゃったのかな…。)

高荷先生の手に、あるべき傘はない。
確か、先生は電車で学校に通っているはずだ。私は、自分の手の中の傘を見つめて、そして取り出したローファーにそっと足を入れた。 雨だれが、変わらず風景に単調な音を運んでいる。
駅まで、先生と傘に入って行けばいいかな。そんなふうに思ったその時、スクリーンの反対側…高荷先生が立っている入り口の逆の端に、 全く違う人影を見た。若い男の人。シャツの左肩に、ジャケットを担ぐようにして立っているのは、相楽先生だ。
先生は、我が高では最も若手の先生だ。確か、私が転校してきた年に、新卒で赴任してきたらしい。そんな話を、部活の顧問をしている 緋村先生から聞いたことがある。授業を受けたことはないが、別のクラスの子に聞くと、先生の英語の授業は面白いと評判だ。サッカー部のコーチ をしている所為か、年齢が近い所為か、生徒ともよく話している場を見かけるし、何時だって先生は会話の中心で笑ったり怒ったりしている。 その姿はまるで、先生というよりは近所のお兄さん、といった感じだ。

そんな先生が、何だか別人のような顔をして…いや、顔は良く見えないのだが、神妙な雰囲気を纏った背中で立っている。
私はそれだけで、見てはいけないものを見てしまった気分になった。息をするのも、どこか苦しい。2人の先生の間にある距離が、ドラマのように 意味深で、でも、それをどうしていいかわからない。ただ、私はこのシーンに侵入してはいけない。それだけは解っていた。ぎゅ、と傘を握る手に 力を込めて私は身動きもできず立ち尽くした。

少しして、ぼんやりと、空を見上げるようにしていた相楽先生が、ゆっくりと高荷先生に身を向けた。 そして、動いた。一歩、また一歩と近づいていく。 何気ない、ともすれば面倒臭げな仕草。そのくせ、不可侵の距離が、縮まるごとに強烈に熱を帯びていった。足音だけが聞こえない。雨音すら、息を呑むように静かだ。世界の全てが 次のシーンを待っている。

腕を伸ばせば触れられそうな所まで来て、相楽先生が止まった。そして、何かを言った。動く唇のシルエットだけが、私の目に焼きつくように残った。 高荷先生は身じろぎすらしない。一瞬だけ強まった風が、雨の帯を画面の右から左へと運んだ。穏やかな停滞。表面上の均衡。そんなもの、打ち壊せ。これは、境界線を越える波紋だ。
見下ろす相楽先生と、微動だにしない高荷先生。ごくり、と私の喉が鳴ったそのとき、

相楽先生の手が、高荷先生に伸びた。



先生の大きな手には、黒い傘が握られていた。
真っ黒な、傘。真っ黒な髪。潤った若葉と、生ぬるい雨。
高荷先生は、ゆっくり顔をめぐらすと、その傘をじっと見た。横顔は黒い髪で覆われていて、よく見えない。でも、小さく左右に頭を振った。
相楽先生は何も言わなかったが、暫くして大げさなほど溜息を付いた。そして、いきなり高荷先生の手を取ると、無理やり傘を押し付けて、雨の中へ走り出した。

奇妙に静かだった世界に、先生が走っていく足音だけが木霊した。
私は、詰めていた息を、ほう、と吐いた。映画は、終わった。
ゆっくりと、先生が残された昇降口へと向かう。傘をまとめたベルトを解いて、ぱん、と開いた。

「先生、さようなら。」

俯いたままの先生にそう言って会釈をしたら、高荷先生は弾かれたように私を見た。その時私は、先生が見つめていたのは黒い傘ではなく、雨の中に消えた 相楽先生が取った腕だったかも知れない、とそう思った。高荷先生の白い腕は、その部分だけほんのりと赤かった。私の脳裏に、相楽先生の唇の影が何度もリフレインした。

「雨、」

高荷先生が、突然言った。

「もう、止むわよ。」
「そう…ですか。」
「馬鹿よね。」
「え?」
「待っていれば、濡れずにすむのに。」

そういって、先生は微笑んだ。胸の何処かが軋むほど、不思議に悲しい感じがした。
どう答えてよいか解らずに、先生の横顔を見つめた。すると、先生は、じゃあね、とちらりと私を見ながら言って、小気味よく 雨の中に足を踏み出した。

私は、目を見張った。先生は、傘を開かなかった。それを片手に握ったまま、綺麗に伸びた足を、泥のはねる校庭に惜しげもなく伸ばして歩いていく。
私は、雨に煙る風景に先生の背中が消えるまで、傘を開いたまま立っていた。
明日は、晴れるのだろうか。晴れてくれればいい。そんなことを脈絡もなく考えた。

この映画のラストシーンは、きっと遠い。
雨に濡れた美しい人を真似て、一歩を踏み出す。傘が弾く雨が、晴天を予感させた。



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