家庭科室は乙女の戦場
大人になっても、きっと恋する気持ちに慣れはないのだ。
転校してきてすぐ、調理部に入った。割と大人しめの女の子ばかりの部で、部員の仲もいい。それもそのはず、私が入部した時、部員は全員3年生だった。先輩が卒業し、部員が私だけになったときは廃部かな、
とも思ったけど、1年生が5人ほど入り何とか存続できることになった。
よって、私は2年生にして部長さんなのだ。…ほんと、弱小だけど。
でも、私は流行の音楽にも芸能人にも疎いし、毎日綺麗にお化粧して学校に来るタイプでもないので、このこじんまりした素朴な
居心地の良さが気に入っている。
部活動を行う家庭科室は別棟と呼ばれる校舎の5階に位置している。
階段を登って、右に行けば技術室。左に折れれば家庭科室。
運動部じゃないし、活動すれば必ず材料費がかかるわけで、結果、週に2度、
ミーティングというお茶会のような井戸端会議のようなものに部員は集まって、次に何を作るか検討する。実際の調理は2週間に一度。
それ以外は、季節に合わせて其々が作りたいものを作りたいように作って、要は好きに活動している。
過去の先輩の中にはサッカー部やら野球部やらに部活動の一環と称してマメに差し入れをし、彼氏を作ったツワモノも居たらしい。
「三条はそういうタイプじゃないかもなぁ。」
いつだったか、割烹着が素敵に似合う顧問の緋村先生が、クリームを泡立てながらそんな話をしてくれた。
先生は、時々そんな話を遠い目をして話しをし、なんとも形容しがたい笑みを漏らす。見た目は相当若くて、
よく調理室に来ては私たちの作品をぽい、と口に放り込み、何を食べても旨いという相楽先生とそんなに変わらないようにみえるのだが、
やはり自分たちとはそれなりに年齢差がある。
当然のことだけど、そんな横顔を見る度に、大人になるって、こういうことなのかな、とぼんやり思う。
過去を振り返って、微妙な顔ができるほど、私には歴史がない。精々、小学校の徒競走でスタートからコケた苦い思い出とか、
女手一つで私を育ててくれた母が逝って、遠縁の親戚に当たる妙さんの家に来た日を思い出す程度だ。それは、
そんなことがあったという事実の確認のようなもので、いい国作ろう鎌倉幕府とか、日本書紀の名はいい、なんて語呂で
覚える年表の一部とさして差はない。そこに何らかの意味合いを見つけられるようになったら、大人になったということなのだろうか
。苦しいとか、嬉しいとか、そういう強烈な感情ではなく、じんわりと染み出すような…言葉にできない感情を理解できるようになるのだろか。
想像もできないけれども、でも、いつかきっとその日が来るに違いない。十六歳の私は、そんなふうに感じていた。
実力テスト明けの午後、私は手持ちぶたさに放課後の時間をもてあまし、家庭科室に顔をだした。すると風景がいつもと少し違って、
がらんどうとしている。
調理台、実習テーブル、調理器具や食器を格納している戸棚。全てがいつもどおりなのに、何かが足りない。開け放した窓から、
抜けるように青い空が気持ちがいいほど大きく見える。
「…あ。」
その青を目に映した途端、あることに気付いた。カーテンが無いのだ。
選択教科で家庭科を取らない限り、此処に足を運ぶ人はいない。加えて、誰かがカーテンを盗んでいくとも思えない。だけど、理由のわからない
結果だけを眺めるというのは、どうも納まりが悪くて不思議な気分だ。と、突然、準備室の扉が開いた。白い塊をかかえた小柄なその人は、
間違いなく緋村先生だ。
「先生、どうなさったんですか。」
よろよろと動きつつ、白い山の向こうから顔を出して、先生はとてもばつが悪そうに言った。
「神谷先生が、法事におはぎをだしたいというから、一緒に作っていたんだけど。」
「はい。」
「ちょっと目を離したらね、爆発しちゃって。」
「ば、ばくはつ、ですか??」
どうしたらそんなことが起こるのだろうか。
「小豆を煮てただけなんだけど、ねぇ。」
私の心中の呟きを察したのか、先生はそう言って、先生はまたいつもの微妙な顔をした。
そして、よいしょ、と抱えた布を実習テーブルの上に置く。開け放した窓から渡る風に、洗剤特有の、甘い花のような香りがした。
「もう、あちこち小豆だらけでね。まいったよ。」
「あ、だから洗濯…。」
「もう2回ほど洗濯機回さないと、追いつかないくらい。」
「神谷先生は、どうしたんですか?」
「カーテンまで飛び散ったくらいだからね。もう服も髪も小豆だらけ。火傷が無くて、よかったよ。」
はあ、と溜息を付いて、先生は笑った。男の人なのに、こんな優しい顔ができるなんて、少しずるい。そう思った。
よほど重かったのか、先生は大儀そうに、肩に手をやり、首をこきこき鳴らしている。若く見えるのに、しぐさや言葉がどこか年寄り
臭いと誰かが言っていたのを思い出して、私はちょっと笑った。
「先生、まだ洗濯あるんでしょ?私、干してきます。」
「え、いいの?」
「テスト明けだし、今日は勉強したくないんです。いい気分転換になりますから。」
悪いなあ、と言いながらも先生は屋上の扉の鍵を渡してくれた。
湿ったカーテンは思った以上にずっしりと重い。準備室から洗濯籠を持ち出して鍵を片手に屋上へ向かう。
屋上はもちろん、通常は締まっている。ただ、洗濯ものを干すのに絶好の場所なので、
運動部のマネージャーなんかはよく先生に鍵を借りているようだ。私は…用事が無くても時々、緋村先生に鍵を借りて、屋上に上がる。
独りで空を眺めたい時、ちょっと静かにぼんやりしたい時。屋上は最高の隠れ家だ。
鍵をください、と緋村先生に頼んで断られたことはないし、何の為にと聞かれたこともない。ただ、あの微妙な笑顔でこっくり頷く
だけだ。
緋村先生は、気付かない振りが、とても上手い。
「うわー、いい天気!!」
屋上は、今日も最高の洗濯日和だ。
カーテンを洗濯棒に掛け、端をぴん、と張ってぱんぱんと叩いていく。大きいだけに手間取ったが、やはり大きいだけに達成感
も十分。妙に嬉しくなって、青い空を仰いだ。これだけ日差しが強ければ、2,3時間で乾いてしまうかもしれない。そんなことを思い
ながら何気なくフェンスに近づく。野球部が対抗試合をやっているようで、なにやらすごい盛り上がりだ。その喧騒も、少し距離がある所為か、
現実味無く耳に届く。
うーん、と伸びをして、流れる白い雲を数えながら思う。
おはぎ、爆発、白いカーテン。
言い訳と、戸惑いと、気まずさ。
神谷先生は、今何処でどんなことを思っているだろう。きっと先生は泣いている。
先生は、緋村先生が好きなのだ。だから、同じ時間を過ごしたいくって必死だ。
でも、緋村先生は気付かない振りをする天才だから。きっと、あの微妙な笑みでやり過ごそうとしたに違いないのだ。
言えない思いと、空回る気持ちと、遣る瀬無さが行き場を失って。
小豆は爆発したんだと、私は思う。
大人になれば、もっといろんなことがクリアになると思ってた。
でもそれは、きっと違う。大人になれなるほど、嬉しかったり悲しかったりすればするほど、気持ちの白黒ははっきりしなくなるのかもしれない。
フェンス越しの世界は、明るくて何もかもがすっきり見えるのに、心の中にある世界はもっともっと複雑で、歪んでいて、覘いてみたいようなみたくないような、不思議な魅力がある。
いつか、私も、何かを爆発させてしまうほど、誰かを好きになったりするのだろうか。それは、少しだけ怖い。
ずっとこのまま、子供と大人の中間でいたいと願うのは無いものねだりという奴かもしれない。
金属バットが小気味よくボールを弾いた音がした。
目を上げれば、真っ青な空の向こうに、白いボールが消えていくのが見えた。
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