塔屋パラダイス



死んでいるのかと思いました、と告白したらその人は、
横になったまま視線を空から私へ流し、
死んでいて欲しかったのか、と問うた。

地平線に上がった黄金の月とまだ半分青い空のアンバランスが、その不思議な人の瞳にとても似合った。




調理部に入ってしばらくして、私はこの心地よい場所を発見した。
家庭科室は最上階に位置しているのに、階段はここでは止まらない。もう一階、上へと延びている。
まあ、どう考えても屋上に続くのだな、と気にも留めずにいたのだが、実習や部活で使った布巾やら、エプロン、ランチョマットなどを洗濯し 乾燥させるのに最適な場所として顧問の緋村先生が「ないしょだよ。」といいながら教えてくれた。内緒、という言葉を真面目に受け取った私は、 始めのうちこそ、校庭からみえないように終始気を使いながら洗濯を干していたのだが、そのうち、運動部のマネージャーなんかと鉢合わせるようになり、 屋上はある一定の人が出入りするまあ、ちょっとした特権ののようなものかな、と気軽に捕らえるようになった。
登ることを考えることすら諦めさせるほど高いフェンスに囲まれているので、セキュリティー上もそれほど問題でないのかもしれない。ただ、表立って開放してしまうと、 都合が悪いことも出てくるから、基本的に立ち入り禁止、という曖昧な線引きなのだろうと思う。世の中にははっきりさせないほうが万事に渡って心地よいということが多々 あるのだ、ということを最近私は少しだけ解ってきている。

その、あまり人の出入りがない、ゆっくりするには最適な屋上の一角にある塔屋は、オアシスの中のオアシスだ。
屋上に出入りする部分が突起のようになっていて、裏に回ると小さな梯子がついている。その上に給水タンクがあるから、上ってみようと 思う人は少ないだろう。が、実際上ってみると案外広々としており、給水タンクが作る影が心地よい日陰となって、立ち上がればフェンスに 遮られない町並みが地平線まで見渡せ、寝転がれば青い空を独り占めできる。
漫画や小説ででてくる、ちょっと脱線してしまった人たちが昼寝をしたり、授業をさぼったりするのは、きっとこんな場所なんだろうな、と思う。 私は授業をサボったり、隠れて煙草を吸ったり、なんてことはしないし、する度胸もないけど…ちょっとそういう世界に憧れていたりもする。 その雰囲気だけは十分に満喫できるから、私は時々ここへ来て、ぼんやりしたり、想像に胸を膨らませたりしていたのだ。



その日、私はとても沈んでいた。
生まれて初めて、呼び出し、というのを受けた。それも、生徒からだ。

『三条さんって、明神君とつきあってるの?』

廊下の端でそう面と向かって…3対1だったけど…聞かれて私はびっくりした。つきあう?私と明神君が??
どう答えていいか解らずにうろたえていると、3人のうちの1人が人を小馬鹿にしたように「だから、言ったじゃん、明神がこんな野暮 い子、好きになるわけないってさ〜。」と笑った。残りの2人がそれに合わせてそうよね、だよねえ、とぎゃははと笑う。私は、そんな3人 に背を向けて、逃げるように屋上へ向かった。途中、家庭科準備室に飛び込んで、鍵をください、とお願いした。相楽先生となにやら向かい合って 話をしていた緋村先生は、一瞬きょとん、としたけど、ああ、と何気なく言って、はい、と鍵をくれた。相楽先生だけが、目でどうしたんだ何なんだと訴えていたけど、 見ないフリをした。

鍵を開け、乱暴に戸を開けると、青い空が夕焼けに染まり始める一瞬だった。私が大好きな、毎日繰り返される極上の空模様。それすら、 今日の私の心を癒してはくれなかった。
私は、知っていた。いつからだったか、明神君が私を『燕』と呼び始めたのだ。きっかけが何だったかは、よくわからない。でも、彼は 親しい人は全部名前で呼ぶ。クラスでも、名前で呼ばれてる子は何人かいる。先生だって例外でない。面と向かっては言わないかもしれないけど、神谷先生のことは、『薫が、宿題やってこいってうるさくてよー。』 とか言ってるし、教育実習中の巻町先生に至っては、『ブス!』とか散々な言われようをしている。でも、結局、 言う側も言われる側もあまり気にはしていないようだ。そんな彼が私を名前で呼んだところで、そこになにか理由があるわけでもないのだろう。 ただ…言葉にするにも恥ずかしくなってしまうような、若干の期待はあったのだ。少なくとも、私を嫌いではないんだろうな、 という程度の。それ以上は曖昧にしておきたくて、そして、人気者の彼に少しだけ特別扱いをしてもらっているようで、心の何処かで小さな 優越感を感じでいたのだ。でも、

『こんな野暮い子』
『好きになるわけ、ない。』

現実をつきつけられた気がした。そしてまた、タイミング悪く、その瞬間を彼本人に見られてしまったような気がする。家庭科室に向かって小走りに 廊下を駆けた時、視界の端に彼の強い瞳が映った。私の行く場所は、もうあそこしかなかった。誰にも見られず、気付かれない、私だけの解放区へ。
塔屋へ上がる梯子に手をかけたとき、胸を締め付ける衝動を抑えられなくなった。
呼吸が少しだけ荒くなり、喉の奥が焼けるように熱くなる。
まだ、駄目。泣いちゃ、駄目。そう思えば思うほど、衝動を止められない。うう、と声が出たらもう涙が堰を切ったように頬を伝うのを感じた。

最後の一段を越え、塔屋に登った私の目に、在り得ないシルエットが映った。人、だ。西日を背負っているから、できる陰影のコントラストがやけに深い。
真っ白のシャツを纏った身を惜しげもなくコンクリート横たえて、長い足を投げ出し、その人物は静かに目を閉じている。 冷たい感じのする横顔が、まだ青い 部分の空に照らされて、生きている人、といったぬくもりを感じない。蝋でできた人形ですと言われたら、はいそうですか、と納得してしまいそうな、 どこかこの世界に属していないかのような不思議な雰囲気の男の人だった。

見たことのない人だ。記憶の何処をたどっても、こんな先生を見かけたことはなかった。
私は流れる涙のことも忘れて、意外な場所に意外に現れた未知の人物に視線を注いだ。宇宙人に会ったらどうしますか、という質問に逃げると 答えたことがあったけど、本当に予想を超える現象に出くわすと、人は動けなくなるものなんだな、と心の何処かで冷静に思う自分に驚いていた。気付けば、張り裂けそうな 胸の奥の嵐はいつの間にか治まっていた。ずいぶんと、長いことそのまま立ち尽くしていた。

すると、閉じた瞳が薄くあいた。
青い部分の空は、落ちる陽に侵食されて、もうずいぶんと紅く染まっている。それでも、その人の輪郭と影だけが、やけに青白い気がした。 やっぱり、この人はあちら側の世界の人なのかもしれない。あちら側、って具体的に何処なのかわからないけど、そんな奇妙な思考に私の脳は満たされた。

「…何だ、お前は。」

不意にそう問われて、不躾にもその人を見つめ続けていたことに気がついた。私は、居心地が悪くなり、かといってもう戻ることもできず、 ただこのまま見下ろすのもどうかとも思って、横たわるその 人に少し距離を置いて、塔屋の縁に腰を下ろした。 宵の明星が霞む地平線の上できらりと輝いている。横目でその人を見ると、その開いた瞳の色 がやけに薄くて目を奪われた。やっぱり不思議な人だ。

「何をしに来た。」

興味なさそうに、面倒くさそうに、社交辞令のようにその人はそう聞いた。私は、回答に困った。正直に泣きにきました、と言う訳には行かず、かといって 他に理由もなかった。どうしよう、と考えているうちに、ふと言葉がでた。

「…脱線しに…。」

その意味が正しく伝わったとも思えなかったが、それ以上どう説明していいかも解らなかった。私は抱えた膝に顔を埋めた。
すると暫くして、その人は、軽く笑った。私の答えはそれなりに、その人の心の何処かに刺激を与えたらしかった。軽く手の甲を額に乗せ、 仰ぐように空を見ながら、そうか、とその人は言った。ちらりと横目で眺めたら、その指の一つが、つと斜陽を反射した。 男の人にしては、やけに細い指だった。それだけのことが、私の心の別の部分を、何故か激しく揺さぶった。
明神君のことも、あの気持ち悪いほどぎらぎらしたグロスで唇を飾った女の子達のことも、砕け散った淡い期待も置き去りにして、私はその奇妙な感覚に身を浸した。 独りだけが、自分に戻れる方法だと思っていた。それが、間違いかもしれないとそう思った。



その後、さして話もせず、私はその不思議な人と塔屋の上で空を分けた。私は地平線に沈む夕日を眺め、その人は終始、 闇色になっていく青い空を泳ぐように見つめていた。

夕日の最後の一片が、宵闇の向こうに落ちたのを見計らって、私は立ち上がった。
その人は、まだ、呆然と星の海を漂っている。逢ったばかりでさようなら、というのも変な気がした。だから、正直に、人が居て驚きましたと 私は言った。すると、その人は、小さく口角を上げた。此方に視線を寄越そうともしないから、私はその人が見上げる空を見た。 星よりも明るい飛行機のウイングランプが赤く点滅していた。
ちかちかするその色を見ていたら、なんだかその人の視線を捕まえたい衝動に駆られた。日頃の私からは、考えられないような 過激な欲望だった。その凶暴な存在に、私自身が驚いた。でも、私が私を止められない。
涙と同じで、駄目だ駄目だと思えば思うほど、衝動というのは暴走するものなのだ。そう気付いた時にはもう遅かった。私は横たわる人の傍に 座り、見上げるその人の視界を遮って瞳を覗き込んだ。琥珀色の瞳に、私の暗い髪が映っていた。

その人は、何も言わない。私の顔を通り過ぎて、その向こうを見ているようだ。悔しかった。だって、私は此処に居るのに、まるで居ても居なくても同じような 扱いだ。そんなのは、嫌だと思った。此処に居る、この私を見て欲しい。それは、実際はその人に向けられた思いではなかったかもしれない。 でも、トリガーを引いたのは、間違いなくその人だった。
この身勝手な感情は、嫉妬というのだと、私は気付いていた。でも、身を焦がす、という感覚にいきなり突き落とされた感じがした。
何だ、とその人はまた静かに聞いた。初めて問われた時のように、あまり熱のこもらない気だるげな声だった。

「死人かと思ったんですよ。」

私はそう呟いて、彼の視界から身を引いた。自分の声が、自分のものではないような感覚だ。見上げた空に、あの赤いランプはもうなかった。途端に、自分の取った行動が気恥ずかしくなって、私は彼に背をむけ立ち上がった。塔屋の縁で、梯子を降りる為に彼 の方を振り返ったら、その人の横顔が私を見ていた。その人は、何だ、死んでいて欲しかったのか、とそう言った。私はそれには答えなかった。



塔屋を降りて、階下へ向かう扉を開けると真っ暗な校内が私を迎えた。
あの不思議な人は、誰だろう。また逢えるだろうか。

きっと、逢える。あの場所で。
私は、理由のない確信に、懲りもせずまた少しだけ淡い期待を抱いた。
遮るもののない解放区で。私は、私に戻る。そして少しだけ、あるべき自分から脱線する。


暗く沈んだ廊下から窓を見上げれば、満月が明るく世界を照らしていた。





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