迷宮保健室



『世の中には、行っちゃいけない所というのがある。』

裏山には狐がでて、子供を神隠しにするからな、と昔、近所のおじいさんが言っていた。
確かに、そんな雰囲気のある山だった。小さな、苔むした階段が、鬱蒼とした木々に囲まれて小さな祠へと続く。
天気が良くてもどこか薄暗いその祠から向こうは、あちらとこちらの世界を分ける境界のようで、どんなやんちゃな子も、真面目におじいさんの言いつけ通り、 それ以上奥へは行かなかった。
その山も成長して見てみれば、子供時代に思ったほど不気味でもなく、存在そのものがあっけないほど簡単に、頭の中から消えた。 そして気付いたら宅地になっていた。結局、その程度のものだと私は結論付けた。この現代社会で、そんなおどろしい場所はないだろう、と。

しかし高校2年の初夏、私はこの訓戒を身に沁みて思い出すことになる。それは、放課後のんびり校庭を歩いていた私の頭上に、 突然訪れた衝撃によって始まった。

『おい!!燕、しっかりしろ、おい!!』

そう血相を変えて叫んでいるのは、サッカー部のユニフォームに身を包んだ明神君だ。こんなに近くでユニフォーム姿、見たことないなあ、今日はラッキーだな…なんて思った瞬間、 世界が暗転して…その後は、誰かに抱えられた感触と、冷たい掌が額に触れた感じと、 それから…甘いような苦いような不思議な香りがして、私は何かを言った。そして暖かい眠りと現実を 彷徨っているような、抗いがたい心地よさに身を任せて、私は意識を手放した。




ぺちぺちと、誰かが私の頬を叩いている。
うう、もう少し、あと5分だけでいいから寝かせて欲しいな…そんな気分で無視しようとしたら、いきなりほっぺをつねられた。

「ったーい!!」

目を開けるより先に、言葉が出る。妙さんヒドイ、いつもはもっと優しく起こしてくれるのに、と思いながら目を開けたら、ものすごい至近 距離に男の人の顔があって、私はぎゃあ、と声を上げた。

何??何???この人、何なの???
びっくりして、半分身を起こして真っ白なシーツに包まれた掛け布団を鼻まで引き上げ後ずさると、背中にごつん、と棒状の金属質な何かが 触れた。
その男の人はそんな私を興味深そうに眺めながら、ふん、と笑った。

「ま、それだけ動けりゃ問題ないな。そろそろ起きてもらわんと、俺が帰れん。」

男性にしては長い髪が開け放した窓から入る風に揺れた。
その人は、私に眩暈や吐き気はないか、と聞いた。そんなものはないけど、心臓が口から出そう、 とは言い出せず、私はただただ頭をぶんぶん横に振った。逆に振りすぎて眩暈がしそうだった。
その人は申し訳程度に白衣を着ている。徐々に周囲の風景が目に入るようになってきた。私の予想が正しければ、此処は保健室らしい。 …で、私は、どうして保健室にいるんでしょうか。
そんな疑問を察したのか、私のベットの横にその人は腰掛けてカルテのようなものを見ながら言った。

「サッカー部の馬鹿が、できもしねえオーバーヘッドを調子にのって試してた。ボールがそれて、お前の頭を直撃。今に至る…ま、そんなとこだな。 馬鹿の名前は二年の明神、とかいったか。慰謝料、がっぽり取ってやれ。」

胸ポケットから綺麗な万年筆を取り出して、その人はなにやらカルテに書き記した。そして、私をじっと見た。
真正面から見据えられて初めて解ったのだが、非常に整った顔の人なのだ。愛想笑いをするタイプではなさそうだし、 優しそうな感じではないが、緋村先生の言うように、「この世で最も関わりたくない人物」のようには見えない。
ただ…瞳が…どういえばいいのか、子供のようにキラキラしているというか…、ものすごい悪巧みを思いついてしまった、という感じで …"不敵"な印象を与えるのだ。

その不敵な人が、ふ、と顔を伏せた。そして、意外にも肩を震えさせて、笑い始めた。
直接知っているわけではないが、この保険医の先生…たしか比古先生いったはずだ…は、この学校ではちょっとした有名人だ。 どしてそのような謂れになったのかは知らないけれど、転校した当初から、「保健室だけは避けよう」といった風潮が生徒間のみならず先生の間でもあるのに驚いた。 私の知っている保健室には、大体柔らかい笑顔の保険医の先生がいて、具合が悪い生徒はもちろん、いろんな悩みを抱えた生徒の駆け込み寺というか 、息抜きの場所のようなところだった。ところが、この学校では違う。行ってはいけない場所のような扱いだ。
勿論、精神的にも肉体的にも、具合の悪い生徒はいないに越したことはないし、保健室を訪れる人が少ないというのは、それだけ健康だという ことなのだから、悪いことではないのだろうけど…。図らずもその禁止区域に足を踏み入れてしまった私は、逆にそのあまりの普通さに 拍子抜けのような感覚に陥っていた。
笑い続けるその人を見ながら、それほど怖い人じゃなさそう…と思っていたら、いきなり質問が投げかけられた。

「お前、国語の成績は?」

思いもしなかった問いかけに、少しだけ面食らう。
普通です、と当たり障りのない答えをしたら、また比古先生は面白そうに目を細めた。

「そうか。しかしすごいセンスの持ち主だな。」
「…え?」
「あの男に、あんな顔させたのはお前くらいだぞ。いや、いい見世物だった。」

よく意味がわからない。
私が知っているのは、あの衝撃と、ふわ、と体が浮く感じと、知らない香りと…。
そんな思いが顔に出たに違いない。先生は、にや、と笑った。

「何だ、覚えてないのか。」

頷けば、そりゃ残念だな、と先生は全然残念そうでない口調で言った。何となく、緋村先生の気持ちが少しだけわかる気がした。

「お前を此処に運んだ男な、まあ俺が言うのもなんだが、変わり者の多いこの学校でも抜きん出た変人でな。」
「はぁ…。」

そういうことは、普通自分で言うだろうか。ただ、言ってしまうところが、この人のこの人らしさなのかもしれない。 評価の理由はこの辺りにあるのだろう。率直は得てして好印象の対岸にあるものだから。

「たまたまお前がぶっ倒れたところに行き合わせたらしい。」
「そうなんですか。」

…明神君が運んでくれたんだと思っていた私は、正直少しだけがっかりした。でも、同時に、 彼に抱きかかえられた自分を想像して、そうでなくて良かったと思い直した。

「運んでいる最中に、お前、あいつに、」

何を言ったのだろう、私は。とんでもないこと、言ってなければいいのだけど。何せ記憶にないのだから、不安なことこの上ない。 思わずごくり、と息を呑んだ。

「宇宙人、と言ったらしいぞ。」

その瞬間、私の脳裏にフラッシュバックのように、コマ送りの記憶が甦った。
衝撃、青い空、くらり、と酔う感じ…そして、あの黄金糖のような色をした瞳。

(塔屋の人だ。)

あれから何度か足を運んだ塔屋。別に、特に逢いたいわけではなかったが、あまりにも不思議な雰囲気の、奇妙な体験だったので、本当に 私はその人と時を過ごしたのか、疑問に思ってしまうほどだった。もしかしたら、夢とか幻だったのかも、なんて人気の無い其処でそんなこ とを心の何処かで考えていた。校内でも、その人の影を見かけることも無かったから。

「挙句の果てにな、此処にお前を寝かした時も、こうやってシャツを握ってな、」

なんてめぐり合わせの悪い、と呆然としている私に、 こう、とわざわざ自分の白衣の袖を握って先生はにやり、と唇をゆがめつつ続ける。

「お父さん、と言ったんだぞ。」

そう言って、先生は気持ちいいほど大声で笑い出した。私は…今度こそ眩暈がした。
人生は、なんて言えるほど長く生きているわけではないけど、何時だったか相楽先生が黒板に書いた、Life is not easyという荒いチョーク の文字が脳内で点滅した。

「いや、その時の彼奴の面ったらなかった。あんな面、そうそう拝めるもんじゃねえ。 無愛想と無感動を絵に描いたような奴だからな、あれは。」

此方の思いも知らず、比古先生は相変わらず人の悪い笑いを続けている。私は、心の底から緋村先生に同情した。今度、何故そう思うように なったのか、聞いてみよう。でも、今はそれどころじゃない。私は起き上がって言った。

「…何処ですか?」
「あ?」
「その人、何処にいるんですか!?」

なんだ、急に元気になったな。そう言って立ち上がった先生は、私を見下ろしながら顎でドアの方を示した。

「東館の1階の、大学への連絡通路の手前、」

其処まで聞いて、私は上履きを半分つっかけたまま、転がるように保健室を出た。
廊下はもう半分闇だ。窓の向こうから、三日月が優しい光を送っている。テニス部の誰かが、コートの整備をしている輪郭だけが ぼんやりと見えた。掲示板の空白部分がやけに目に留まった。

その上にぽつん、とある廊下は静かに、という張り紙を横目に駆け抜ける。そんなの、無理だ。
東館は、図書室や美術室がある建物で、大学への連絡通路があるが、あまり行く場所ではない。それでも、比古先生の言った部屋の前に辿り着いた。
荒い息のまま、閉じられた暗い扉を見上げる。黒い板の上には、時代錯誤なといっても過言ではないほど真っ白の流麗な文字で、『教官室』と書かれてあった。目線を下 に下ろすと、扉の横にプレートがつけられている。

教育学部高等数学教育科:斎藤 一
教育学部高等史学教育科:沢下条 張

その人は、この2人のうちのどちらか、ということらしい。宇宙人ではなく、生身の人なのだ。…当然のことながら。
私は、ほう、と息をつく。あの夕焼けと夜の狭間で過ごした一瞬は、幻じゃなかった。
そ、っと扉に手をかけて横に引いてみる。かた、と音がして何かが引っかかる感じがした。施錠されているということは、もう誰もいないのだろう。よく見れば、其々の名前の横に、 "退出"という小さな札がかけられていた。

その時、何かが扉の向こうからふわりと薫った。
それは、私の記憶の底にある何処とリンクする。扉に手をかけたまま、その香りと共に上履きの先を見つめる。は、っとした。

それは、父の愛していた煙草と同じ香りだった。
胸の奥が、焼けるように痛くなった。そして、少しだけ既視感に陥る。 逢いたいと思うとき、それは何時だって手が届かないのだと。

扉に掛けた手を、ゆっくりと開放する。振り返れば其処に、闇に沈んだ塔屋のシルエットが藍色の空にくっきりと見えた。



To the Postscript→



designed by {neut}