グラウンド、飛行機雲、キャンバスの赤、そして夏が



「ああ、なんやそれ、ウチの時代にもあったわね。」

妙さんは、御新香を箸でつまみながらそう言った。

「ウチの高校、教育学部の付属でしょ?先生にも二種類あるんよ。」

夏休みも終わってそろそろ9月も半ばだというのに、蝉の声が朝から騒がしい。つかの間の命を燃やすそれが、今日も世界にその存在を叫んでいる。
京風のお味噌汁をすすりながら、私は聞いた。

「二種類…?」
「そう。普通の先生と、教育学部の先生。」

それって、どう違うの?
そんな思いを見て取ったのか、妙さんは明るく笑う。

「そやねえ… 普通の先生いうんは、授業してくれる先生ね。教員免許を持っていて高校に雇われてる、って言うたら解るやろか?」

つまりは、神谷先生や緋村先生のことを指すのだろう。うん、と頷くと妙さんは続けた。
下町といわれるエリアには違いないが東京のど真ん中で、こうやって妙さんの京言葉を聴くのは何故か心地よい。

「教育学部の先生は、大学の先生やね。通称、"教官"。国語とか数学とかを、 どうやったらわかりやすく生徒に教えられるかっていうことを、まあ、研究しに高校に来てるって感じやねぇ。」
「じゃ、授業はしないんだ。」
「そやね、基本的にはせえへんね。教育実習の先生がする授業を見に来はったりはするかもしれんけど。あと、代用の先生が居れへん時ね。 病気とか怪我とかで普通の先生が急にお休みになると、教官が授業したりするってこと、何回かあったわ〜。」

ウチの時代には、物理の教官がめっちゃ男前でなぁ、あの三角眉毛、病気になれーって思ったりしたわ。
そんな妙さんの昔話を遠くで聞きながら、私は軽く手を合わせ、ごちそうさまをした。
佐渡島先生は、妙さんが高校生だった頃から三角眉毛と呼ばれていたらしい。少しだけ同情しながら、私は身支度を整える。 日差しが高くなる前の、静かでそれで居て、町が動いていく気配がするこの時間に、私はいつも家を出る。 鞄を持ってお店と共有のお勝手へ向かうと、調理場から若い板さんがひょっこり顔をだして、はい、と桜色のお弁当包みを渡してくれた。

「今日のは、ちょっと自信作。」

そういって笑う板さんは、2年前から妙さんの営む小料理屋で修行している。その修行の一環が、まかない…つまりお昼ごはんの調理だ。私の お弁当はかれこれ此方に越してきてからずっと彼が作ってくれている。

私と同じ年なのに、ちゃんと自分の道を歩いている彼が 時々眩しくてかなわない。お礼を言うと、坊主頭を掻いて板さんはへへへ、と笑った。
昔ながらの引き戸をがらりと開けて、いってきます、と呟く。見上げた空はどこまでも高く、一筋の飛行機雲が気持ちのよいほど白い一本の線を くっきりと引いて青いシルクを横切っている。隣の煙草屋の店先に座ったおばあちゃん が、私の呟きに、気をつけて行っといで、と声をかけた。何時ものように軽く会釈をすると、おばあさんも欠けた歯を見せて笑う。テレビから、けばけばしい広告が やけに乾いた音で流れていて、その膝の上で猫が我関せずとのんびり伸びをしていた。
季節は巡っても、私が繰り返すループは何時だって同じ。同じ時間に起きて、同じ時間に家をでて。同じような授業を受けて、同じ時期に試験があって。 同じ友達と、さして興味の無い話題を同じような話をして。
このループが、ぷつんと切れて、何処か違う世界とリンクするような何かが起きてくれればいい。漫画や小説や映画の中のような、壮大な何かは望まない。 でも、私だけに起こる”何か”。

時間どおりやってきたバスに乗りこみ、何時もの窓際の席へと急ぐ。
この思考も、何時ものループだわ。
そう思った瞬間何かに違和感を感じて、ふと立ち止まり、振り返る。視線の先で、自動ドアがすとんと閉まった。

蝉の声が、何時の間にか止んでいる。



運動部でもないのに、私の朝が早いのにはわけがある。毎日、朝の教室で予習や宿題を片付けるからだ。
放課後、部活が無い日は、極力妙さんのお店を手伝うようにしている。私と同じで早く両親をなくした妙さんは、私を唯一の 家族だと思ってくれていて、その所為もあるのだろう、「燕ちゃんはそんなこと、気にせんでもええのよ。」と 言ってくれる。でも、調理場で板さんたちがお魚をさばいたり、キレイに盛り付けたりしているのを見るのはとても面白いし、料理を運んだり、 常連のお客さんと言葉を交わすのは正直学校に行くよりも楽しい。
学校以外の世界を覗き見る。そして、きっと、これが、世界の本当の姿だと思う。学校はなんだか特別区のような感じだ。守られていて、学生だから という理由で、隔離されている。そして、私は子供と大人の世界の境界に立っていて、お店にいる時はは少し越境して大人の世界に 身を投じるという感覚だ。
其処では、大人が酔っ払ったり、笑ったり、時には何かに泣いたりしてる。かっこいいことばかりではないけど、私にはそちらの方がよりリアリティがあるように思うと、 そう言ったら、緋村先生はお得意の微妙な顔をして言った。

『いつか、それが三条のリアリティになる。望まなくてもね。だからこそ俺は、もう一回、高校生をしたいよ。』

お茶をすすりながら、先生は続けた。

『それに、リアリティは…持たすものだね。』
『?』
『モノの見方次第ってこと。感じるのは、三条本人だからね。』

私はその意味をまだ、本当の意味では解りかねている。
いずれにせよそんな理由で、お店にいる時間が長いものだから、「高校生は10時まで!」という妙さんにせかされてお店から上がり、お風呂にはいってのんびりしてたらもう 瞼が重くなる。結局、宿題は終わっても予習や復習には手が回らないことが多い。
食べ物屋の朝は早い。妙さんも、通いでやってくる板さんも、仕入れや仕込みがあるから朝からばたばたしている。結局私も目が覚めてしまうので、 思い切って授業が始まる一時間は前に学校へ到着するようにした。人気の無い校内は思った以上に心地よく、勉強もはかどる。転校してからの方が、 成績はよくなった…相変わらず、数学は少し苦手だけど。
グラウンドでは、サッカー部が軽いストレッチをしている。環になっているジャージの中に、明神君の姿を見つけてどきり、とした。呼び出しの 一件があって以来、私は彼をできるだけ避けるようにしていたのだが、彼のほうは逆で、昔以上に私に声をかけるようになった。きっと、彼の ボールが私に当たって保健室に運び込まれた一件もあるのだろうが、妙に腫れ物を触るように優しくされるときもあって困る。

(何時もどおりで、いいのに。)

何時もどおりを断ち切る何かを望む同じ心で、変わらないことを求めているのだから可笑しい。
大人になったら、こんな矛盾はなくなるのかな。そう思いながら下駄箱に向かおうと花壇の横を歩いていると、何時もは閉まっている美術室の 窓が大きく開け放たれて、薄暗い室内が見えた
大きなキャンバスに、赤が咲いている。血よりも赤くて、口紅よりも濃いような、そんな赤。この学校に美術部はないので、きっと美術の四乃森先生が 描いたものなのだろう。先生は、定期的に展覧会に出展しているとクラスメイトから聞いたことがある。この赤は何だろう。花かな。それとも、 唇かしら。赤は炎の色なのに、でも寒い印象がある、不思議な赤。

『モノの見方次第、ってこと。』

私の脳内に、あの日塔屋でみた、飛行機のテールランプがちかちかと点滅した。




何時も通りに、HRの始まる10分前に予習が終わった。ほう、と息をついて、駆け足でやってきた隣の席の子と何気ない話をしてると、話の途中で 日直だと気付いて日誌の項目を書きはじめる。
9月16日火曜日、晴天。一現目は…数学U。担当は、坂上先生。生徒からは爺やと呼ばれる温和な先生だ。 今日は教科書の何ページからだったかな、と予習をしてきたノートを取り出すと本鈴が鳴り、 あわせたように、ガラリと扉が開く音がした。

(何時もどおり、過ぎていくのよ。)

自動的に、声が出る。

「起立ー、…ぇ。」

日直なので、そう声をかけつつ、立ち上がった私は自分の視界に映るリアリティに息を呑む。
其処には見慣れた、坂上先生の小柄な体は無かった。

細い、長身の体。真っ白なシャツと黒いジャケット。
そして、細いフレームの向こうに見える、あの、

絞りだす声が、奇妙に震えた。

「き、をつけ、」

そう、ループがぷつんと切れるような何かを求めたのは私。
蝉の声が止んで、
真っ赤なキャンバスの赤が、
グラウンドの真ん中の、ジャージの背中が、
シルクの空を横切る白い飛行機雲の切っ先が、
宵闇の境界線に横たえた体、
点滅するテールランプが、
黄金の月と、
その指で斜陽を反射した、何かが、


頭の中をわんわん音をたてながら、ぐるぐると回っている。

(待って、)

心臓がどくん、と音を立てる。耳元で、何度も何度も。
塔屋で見たあの夕焼けと、其処で逢った不思議な人。
そして、私を助けてくれた人。お礼を言いたくて、でもそれ以来逢えなくて。
もう、記憶の下層へ流れていっていたあの人が。

「れ、い。」

自分のもので無いような声が、遠くで聞こえている。

(そんな、)

「ちゃ、くせ、き。」

そう号令をかけた私自身は、自分は着席できずに立ち尽くす。
ちょっと、三条さん…と、後ろの席の子が不安気に私の制服の裾を引いたその時、

「…何だ?」

眉間に軽く皺を寄せて、その男の人はそう言った。すいません、と小さく答えて私は慌てて腰を下ろす。
思いもしなかったリアリティが、いきなりやってきて膝が震える。視界の先で、その人は淡々と言い放った。

「坂上先生は都合で暫くの間欠席される。代行の先生が着任するまで当分は俺が数学の担当だ。」

男性にしてはやけに細い指が、チョークを軽く摘み上げて黒板にさらりと線を描いた。

『斎藤 一』

興味と好奇心に満ちたざわめきが、教室を隅々まで満たした。

「とりあえず、全員の進捗を把握する為に、小テストを行う。」

途端にざわめきは消え、ええー、とか聞いてないですよー、と言った不満の狼煙がクラス中から上がる。 それを聞いた斎藤先生は、眼鏡を取って鼻で笑った。

「お前達の意見は聞いてない。悔しかったら教師になれ。それに、 理解しているところとしていないところを判別するのは無駄ではない。 心配するな、宿題のチェックにも補習にも徹底的に付き合ってやるからな。」

うえぇ、いらねえ、という声が上がる中、前の席からプリントが順々に渡されていく。
そのプリントに名前を書きながら、やけにぼんやりしている頭の中で思う。

驚いたのは、一瞬。でも、今は、
新しい何かのスタートを、感じている。

視線の先のその人は、プリントが行き渡ったのを確認すると、壁にその細長い体をもたれさせ、軽く腕組みをした。そして、前触れ無くちらり、と視線を上げる。
その瞬間。私たちの視線が合った。

リアリティは、持たすもの。
終わっていく夏の中、私のループがその人にリンクした。


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