葉桜

桜は満開のときよりも、その散り際が美しい。そう言ったのは、誰だっただろう?
空は既に初夏を思わせる青さをはらみ、命が萌える季節の到来を告げている。
その日散歩に出た緋村は、少し意外なものを見て立ち止まった。

自分の4,5間前を、痩身で背の高い男が、雪のように散る桜の花びら中をゆっくり歩いている。桜色と新緑の混じる風景と、落ち着いた渋い濃灰色の着物を着流して歩いているその男の組み合わせは、特に奇妙なものではない。いや、むしろ趣のある情景である。

ただ、その男の素性や性質を知っていると、2つの異質なものがひとところに存在しているような不思議な違和感を覚える。だから、一度は人違いかとも思った。でも、見ればやはり自分の知った男のようである。声をかけるべきか、迷う。声をかけても、何を話せばよいかわからぬ。何せ、こちらは、‘愛想を付かされた‘身である。

その男が、急に立ち止まった。そしてゆっくりと肩越しに振り返る。琥珀色の瞳がじっと緋村をとらえている。

「…俺に何か用か。」

ばれてしまってはしょうがないので、とりあえず笑ってみる。

「察したか。」

歩を進め、その男に近づく。追いつくか、というときに、男もまた歩き始めた。心なしか、いつもよりゆっくりと歩いているように思う。 少し距離を置いて、歩む。お互い、同じ方向に向かっているのだから、道連れもいたしかたないと、言い訳のようなことを考える。今更いきなり回れ右、というのもおかしい。

「男につけられる覚えはないぞ。」
「異動の件、聞いたでござるよ。」
「お前たちの管轄署だけに用があるわけでもないんでな。これでも俺は忙しい。」

去年の秋、緋村はいずれ自分が剣を振るえなくなるということを聞いた。その時、己が唯一望んだのが、今自分の少し前を歩いている男との決着であった。

元新撰組三番隊組長・斉藤一。幕末の京都から、10年ぶりに再会し、その後、何度か死線を共に乗り越えた。目的も意図も手段も、ましてや生き方も、全く違っていたが、それでも目指した方向は同じであった。しかし、馴れ合うということはない。前触れなくやってきて、前触れ無く去っていく。心を許す間柄でもないし、敵でもない。ただ、精神の根底では同種のものを感じる。

戦友のようなものだといったら、この男はどのような反応を示すだろうか。

「帯刀しないのでござるか。」

斉藤が、いつもの日本刀を携えていないのに気づき、緋村は聞いた。

「この明治の世で、官憲の制服なしに帯刀している阿呆は、お前くらいだ。」

まことにもっとも、である。取り付くしまもないとはこのことだ。 そうだな、といって、その後かける言葉を失う。
制服を着ていないと、どこからどう見ても警官には見えない。琥珀色をした切れ長の目、今日はいつものように後ろへ流していない漆黒の髪が、緩やかな風に踊っている。その髪を掻き揚げるさま、身のこなし、そしてなによりその、周りのことに一切かまわないといった態度がかもし出す雰囲気が、どちらかというと世間から離れたところに住む人間、そう例えていうなら、緋村の師匠のような類の印象を与える。生活感がしない、といったほうがいいのだろうか。

しかし、どこぞのお店のもの、といえばそうにも見えるし、逆に俳人や華人といえば、そうも見えなくない。
それはそのまま、得体がしれぬ、ということであるが。いずれにせよ…。

「警官には、やっぱりみえぬでござるよ。」
「…別に、見えなくていい。」

憮然という言葉がぴったりの声色であった。緋村は少し笑う。
この男と、血刀をまじえず、しかも偶然とはいえ桜の下を、肩を並べて歩むことになろうとは、想像もできぬことであった。一言で言えば、平和である。そしてその言葉は、‘新撰組‘にも‘人斬り‘にも属してはいないもののように思えた。

その時、ふと目についた。
そう、この存在も、今日この男を、緋村の知っている斉藤一から、遠ざけている。それは2,3枝の桜であった。葉桜になってはいるが、まだ、つぼみもついているところもあり、十分に美しい。それを、水を張った手桶にいれて下げている。

「桜でござるか。」
「ああ。」

壬生の狼、京洛の鬼、と恐れられた男が、花なぞを携え、何処へ行くものか。
興味がわいたが、訪ねても返事は期待できそうもないので、あえて聞かない。少し歩くと、意外にも斉藤の方から言葉がでた。

「最後に会ったのが、桜がほころぶころでな。次に来るときは、桜の枝を持ってきてほしいと乞われた。」

存外な言葉に、正直驚く。

「おや、お主意外と隅におけ…。」

緋村はそこまで言って、言葉をとざした。今まで口に上った言葉とは全く逆の思考が発生していた。頭の中で、ある言葉を思い出す。無邪気な表情を宿す、やさしげな瞳。その向こうにある風貌とは不釣合いな、しかし間違いなくその青年の作り出す鮮烈な死。

『また会いましたね、緋村さん』

「墓参でござるか。」
「ああ。」

斉藤は振り返りもせず歩いていく。ゆっくりと、ではあるが。

「…聞いてもかまわぬか。」
「なんだ。」
「それは沖田殿への墓参か。」

一瞬の間が空く。そんなことがとても長く感じる。
その間も、しんしんと、雪のように桜が降る。

「まあ、そんなところだ。」

読みは衰えんな、斉藤はそう言った。
考えてみれば、新撰組の幹部で生き残っていることのほうが例外なのだ。いつも最前線にいた新撰組は、そのほとんどが戊辰で命を散らしたという。
ただ、そのなかでも剣椀の知られた沖田が剣に倒れたとはついぞ聞かなかった。知っているのは、既にあの青年がこの世にいないということ。そしてそれは、あの時代を生きた剣客としては、少し以上に気になるところでもあった。

「京で、幾度となく剣をかわしたが…。沖田殿の剣の冴えはいつも見事の一言だった。」
斉藤は何も答えない。

「お主とはまた違った意味で、凄みのある剣客でござったよ。」

二人の、緩やかな足音だけが響いている。

「…して、最後は…?」

緋村は歩いていた足を止める。もう一度尋ねる。

「沖田殿は、どのような最後…。」

そこまで緋村が言ったところで、斉藤は歩を止め振り返る。
痩せた肩越しに垣間見るその瞳に、いつもとは違った色が浮かんでいるように思えた。殺気でも、威圧感でもない。

ただ、そこには毅然とした光があった。お前が入って来れるのは、ここまでだとその瞳は語っていた。

「…すまん。埒もないことを聞いた。」

ふん、と言って斉藤は歩を進める。緋村もまた、ゆっくりと歩き出した。

「墓前に、緋村が…その、偲んでいたと伝えてくれ。何もしてはやれぬが、沖田殿とは…刃を交えぬところで会いたかった、と。」

斉藤は、半ば呆れたように言葉を返す。

「宿敵にそのようなことを言われても喜ば…。」

そこまで言って、一瞬考えるように黙り込んだ。
桜の花びらが、2人の男の間でひらひらと平和に舞っている。

「…いや、案外あの人は面白がるかも知れん。」

そうつぶやいて斉藤は少し笑った。その笑みは、いつもの人を食ったようなものでなく、どこかやわらかく緋村の目には写った。そして斉藤は短く、気が向いたらな、と答えた。

その後二人はしばらく黙って歩き、別れた。

「では、拙者はここで。」
「ああ。」

愛想のないことこの上ない。初めから緋村の存在など気に留めていなかったかのような口ぶりだ。

「斉藤。」
「なんだ。」
「次は、何処へ行く?」
「知るか。だが行かねばならぬ所に、俺は行く。」

らしい、と思う。
どれだけ世が変わり、政治が変わって、平和に見えても、人間のかかえる本質的な暗部は無くならない。そして、人間が生きていく限り、この男を‘必要とする‘ 場所は消滅しないだろう。

風に揺れる髪をわずらわしそうにかきあげて、斉藤は緋村を見下ろしている。着物の裾から若干顔をだした腕に、白い包帯が巻かれているのが垣間見えた。血がにじんでいた。

「俺は、行く。…死ぬまで、な。」

そこで、いつものように、唇の端で笑った。一瞬の間、その瞳が黄金の色を放って緋村を見る。その眼光は、幕末の京都からずっと変わらない。そしてこれからもきっと変わらないのだろう。本人の言うように、その膝を地について、こと切れるまで。

じゃあな、と言って、斉藤は桜の中を独りで歩いていった。

緋村は、その後姿が桜吹雪の中に消えるまで見送った。また当分、顔を合わすこともないだろう。そんなことを、ぼんやり考えていた。

春の終わりのことだった。





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