果てに在る星

天気というのは、それなりに人格形成に影響を与えるらしい。
南国生まれのものは、比較的おおらか。西国生まれのものは、四季の変化に敏感で繊細。北国生まれのものは、冬が長く厳しい分だけ情に厚いという。東国といわれる江戸生まれの自分はどうだろう。世間では江戸者は気風の良さが身上だというが、己ではわからない。

大体、帰属感というものがない。
いや、隊に属していたときはそれなりにあったのだが、その後、組織というものの脆さを目の当たりにして以来、その感覚は薄くなった。逆に、どの組織に属していても、どんな肩書きを戴いても己は己だという自負の方が強くなった。そうでなければ生きてはこれなかった。
自分の身分は会津藩士、ということになったらしい。名も改めた。だが、それらが全て借り物のような気がして、馴染むまでには至っていない。しかし、だからこそこのような、いつ命が果てぬとも知れぬ役目を己はこなしていけるのかもしれない。借り物の命が果てたところで、一体何が変わろうか。己にとっては、さして差があるようには思えない。

大久保付きの密偵をしながら、斗南と東京を行き来する生活ももう半年になる。新しい時代に向かう躍動の街と、打ち捨てられた者達の飢餓の街。2つの異なる世界の間で、己が一体何者で何処へ向かっているのか、そんな他愛のないことを考える。


そういえば斗南で、見知った顔を見た。とはいえ、懐かしいと言うほどの知り合いではない。若松城で、怪我人の世話をしていた女だ。己も世話になったことがある。
女は神社の境内で、子供たちに囲まれ、なにやら話をしていた。

ここは、こう。止めて、撥ねる。
あら、書き順がおかしいですよ。

子供たちの声に混じって、女の朗らかな声が風に運ばれてくる。どうやら、女は子供等に字を教えているらしい。

見つめていたつもりはなかった。ただ、その女と子供たちの空間が、荒んだ街からはかけ離れた穏やかさで。目に留めた。その程度だった。
しかし、それは子供たちの一人に、女の袖を引かせるほどには長かったらしい。袖を引かれて、初めて女は己の存在に気が付いた。
此方を見遣って、訝しげに軽く頭を下げる。そして、何かに気づいたらしい。は、っと顔を上げた。
気が付いてしまったのでは素通りというわけにもいかず、歩み寄り声を掛ける。己が近づくにつれ、子供たちの輪がやんわりと女から離れた。

「息災で何よりだ。」
「・・・ご無事でいらっしゃいましたか・・・。」

ようございました。
そう付け加え、女は視線を落とした。その意味が解らないでもない。
本当に生き残って良かったのか。あの時死んでいたほうが良かったのではないか。
この地に追い遣られた者達は、貧困と死の中でそう問わずにはいられない。
かく言う己も、死にきれなかったという感が無いでもない。だから口に上った言葉に嘘は無かった。

「まあ、生きていても良かったかどうか。この有様ではな。」
「それでも、ご無事で何よりです。」

ねえ、と言いながら、女の着物にしがみ付いて此方を伺っている幼子の頭を撫でる。
ふと目を落とすと、その足元には、沢山の文字が並んでいた。

おひさま
おつきさま
おこめ
ととさま
ははさま

そんな言葉が並んでいる。まともに読めるのはそれぞれの言葉に一つだけだ。それをお手本に、子供たちは木の枝を筆代わりに手習いをしているらしい。女の書いた手本の周りに、たどたどしい文字が並ぶ。
それらを目で追う己に気付いたらしい。女は少し笑って言った。

「私には、これしかできませぬゆえ。」

その微笑みは、落城間近の城の中で見た静かな笑みとはまた異なるものだった。
この女には、月下にたゆとう闇よりも若葉の元の朝日が似合う。そんなことを考えた。

気まずいような、なんともいえない沈黙が流れる。 すると、遠巻きに己を見ていた子供の一人が歩み寄って、おずおずと問うた。

「・・・お侍さま。」

丸い目をして、じ、と己を見上げている。軽く目をやって、なんだ、と答えると、

「お侍さまは、字が書けますか?」
「まあ、な。」

途端に、わあ、と声が上がる。少し離れたところにいた子供たちまでが己の下に走り寄る。足にしがみつくように沢山の子供たちに囲まれ、一瞬たじろいた。

「字を教えてください、お侍様。」
「あたしの名前、書いて。みよ、って。」
「書いてくださいませ、でしょう!もう。」
「じゃ、おいらのも!」
「あー、ずるいよ、順番!!。」

そんなことを口々に言い合う。子供たちの中の、比較的年長のものが何とか年少の者たちの言動をなだめようとするが、うまくいかない。 振って沸いた嵐のような騒動に言葉を失った己を見て、女は楽しそうに笑った。

「この子たちは、戦の前後の生まれで、文字を知らぬのです。」

でも、いつかこの子達が、文字を必要とする日が来るかもしれませぬ。
そう呟くように言って、子供たちの輪に入り、足を折って目線を合わす。子供たちの声が、面白いほどあっけなく止まり、小さな頭と小さな目が、一斉に女に向かった。

「そんなに一遍にお願いしては、お侍様もお困りですよ。ひとつになさい。」

柔らかく言われた言葉に、子供たちは合わせたようにこっくり頷く。
そして、わらわらと己の足元から離れ、一所に纏まって相談を始める。ああでもない、こうでもない、それじゃずるいよ、と頭をひねって考えるその様を、女はただ笑って見ている。 そうこうするうちに、子供たちの意見はまとまったらしい。年長の者が進み出て言った。

「ときおさま、と書いてくださいませ。」

それが何なのか解らなかった己は、余程間抜けな顔をしたらしい。子供たちは、顔を見合わせてくすくすと笑っている。訳がわからず女のほうを見遣った。

「・・・私の名です。」

少し離れた所で女は、そうはにかむように言って、頬にかかる後れ毛を掻いた。穏やかな風に、その髪が軽く踊った。
子供の一人が、はい、と己に木の枝を差し出す。

書いてくださいませ、ときおさまのお名前を書いてくださいませ。

「・・・仮名でいいんだな。」

誰に問うでなくそう言うと、女は、はい、と小さく答えた。

おひさま
おつきさま
おこめ
ととさま
ははさま

ときおさま

女の柔らかな文字の横に、己の愛想のない文字が並んだ。
子供たちは、わあ、とか、へえ、とか声をもらして、己の字を見つめ、おのおのに手習いを始める。そのうち、己と女の間に横たわる地面は女の名で溢れるように満たされた。 これ程見せられては、一生その名を忘れることはなかろうと、そんなことを思った。
子供たちが手習いに夢中になっているので、持たされた枝を女に戻す。急ぐ必要はなかったが、その穏やかな空気に自分だけがそぐわないかのような違和感がぬぐえない。女は黙って、枝を受け取った。

別れ際に、女に問うた。
斗南は藩では無くなることが、もう誰の目にも明らかだった。今後、この女がどうするのか、少し気になったのだ。その程度の戯れだった。
女は一瞬その黒い目を伏せ逡巡したものの、振り切るように己を見上げて言った。

「どこまで行っても、会津者ですから、」

そして、悲しいほどたおやかに明るく笑う。

「どんなことがあっても、生きて見せます。」

その声は、湛えた笑みの柔らかさと共に、己の胸のどこかをちくりと刺した。

餓えと病で毎日死人が出る不毛の地にあっても、子供たちと文字を書く。
いつかその文字が、子供たちの未来を開く一端になることを信じて、女は今日も文字を書く。

己は何処から来て、何処へ向かっているのだろう。
会津者だと、そう言切れる女を、出口の見えぬ季節の中でただ眩しく思った。






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