今、此処に居る貴方

ふう、と息を吹きかけると、羽虫はぶぶぶ、とたじろいで去っていた。

時尾は骨董屋の軒先で、往来を見ている。今日は市も立っているから、次から次へと溢れる様に行き交う人々を見るだけで飽きることはない。

毎度のことだが、夫は骨董が好きである。故に休みになると、骨董やら古書やらの店へ行く羽目になる。自分としては、春ならば桜が見たいとか、夏ならば夕涼みや朝市、たまには芝居やら等々、夫と一緒にやりたいことは山のようにあるのだが、なかなか言い出せないでいる。

大体、休みなどがちゃんとある人ではない。いつも日本全国を飛び回っている。帰宅する日の数のほうが少ないのだ。だからこそ、偶の休みの日ぐらい、好きなことをさせてあげたいとも思う。だから、骨董めぐりもそれほどに苦痛ではない。

夫は真剣に骨董を見ている。壷や掛け軸には余り興味が無いようで、もっぱら刀ばかり。それも、気に入るものがなかなかない。年に1,2度買う程度。よって、見るだけ、で終わることが多い。

『俺の目にかなうものがないのだ。』

夫はそう言うが、どうなのだろう。自分には解らない。
そもそも、この男の何を自分は知っているのだろう、と時尾はふと考える。
夫ではある。警官である。本人ははっきりとは言わないが、解っている。ちょっと普通でない事例を扱っているようだ。それ以外は?

京では、斎藤一と名乗っていた。それも本名ではないらしい。次は山口次郎。一戸伝八。そして今は藤田五郎。
名前以外は何を知っているだろう。好きなものは煙草。初めて会ったときは煙管を吸っていたから、本来なら煙管を持っていたいのかもしれない。機会があれば、一度聞いてみよう。酒も割りと好きなようだ。辛くて、すっきりしているのが好み。燗より冷。本人は明治になって控えているというが、自分の前では良く飲んでいるように思う。
着るものに気を使う人ではないが、だらしないのや無粋な柄は嫌いだ。強いて言うなら締まる色が好き。紺とか黒とかの純な色より、墨黒や、鉄灰色、青でも若干緑の入った渋みのある色の方を好むようだ。赤みの有る生地も似合うと思うのだが、本人は好きでないようだ。 忙しいわりに、書をよく読む。ただし、どの程度真剣に読んでいるのかは解らない。眺めているだけかもしれない。書籍そのものに執着が無いようで、定期的に、わりとあっけなく処分している。
甘いものは苦手。以前のお仲間に、とてつもなく甘党の人がいたとかで、嫌いだと何度言っても付き合わされて辟易したとぼやいたことがある。未だに、団子やらおはぎやらを見ると、嫌な顔をする。時尾としては面白みがないことこの上ない。

好きな花は…。何だったかしら。いつだったか、そんな話をしたような…。
長い間一緒に居るようで、案外知らないものだ。

「毎度、ありがとうございました。」

その声で、はっと時尾は我に返る。
斎藤が暖簾をくぐって骨董屋から出てきた。

「お目にかなうものがございましたか?」

夫の顔は、例えて言うなら、不満足、その一言である。返事もしない。
そんなそっけない態度もいつものことなので、時尾も今更驚くことはない。

黙って歩く夫の後をついてゆく。自分の仕立てた着物を着流して歩いている。涼やかな横顔、少し寄せた眉、美しい琥珀糖の瞳に、はらりと落ちる漆黒の髪。わが夫ながら、良い男ぶりだと思う。さぞかし目を引くことだろうと、そう思う自分に呆れる。

市が立つ日はやはり人が多い。夫の背を見失わぬように、と思ったのだが、人の流れが激しく、どん、と肩が触れてしまった老人にわびている間にその後姿を見失ってしまった。

「…あら…。」

あっという間に見えなくなってしまった。
きっと夫は気付かなかったに違いない。自分がはぐれてしまったことに。
それは少し寂しい気はするが、気づかぬ夫のせいでもない。その背中を探しつつ、人の流れに身を任せ、市をめぐることにする。恐ろしいほど器用な人だ。自分がじたばたするより、夫が自分を見つけてくれるのを待つのが得策であることを、時尾は経験から知っていた。

色の洪水のような飴玉屋、的射、金魚すくい。そういった店に気楽に足を向けのぞいていく。

「お姐さん、これ持っていきな!」
「そこを行く姐さん、ちょっと寄ってきなって!」

独りのんびり市をめぐる女が珍しいのか、時尾には威勢の良い声がかかる。
それぞれに、礼をいったり、断ってみたり。そんなことを繰り返す。そのたびに、こまごまとしたものを頂く。

おまけおまけ、また来ておくんなさいよ、お姐さん。
あらあら、今日は皆さん、商売熱心のようで。

途切れなく続く市の、一軒の出店に目が止まる。簪やら櫛やらを置いているその店は、割と落ち着いた趣向の商品が並んでおり、時尾の目を引いた。

「いらっしゃい、お姐さん。」

店主と思しき若い男がにっこり笑う。

「何をお求めですか?」

別にこれといって目当てがあるわけでないので、曖昧に笑って商品に目を落とす。
簪、櫛、紅入れ、手鏡等など。いくつかの髪飾りを手に取って眺めていく。出店で見かける簪は往々にして華やか過ぎて好きではないが、ここにある簪は作りが精巧な割りに、毒々しい派手さがなく、好みだ。そう思いながら当てもなく眺めていく。
出店の端に、小さな鏡がある。おそらく客が、髪飾りを試すときに使うものだろう。そう思って目をやると、鏡越しにその若い男が自分を見つめていることに気がついた。

「・・・あの、何か?」

にこやかに笑ってそう問うと、あわてて若者が目を逸らす。若者は、すいません、と少し笑って、実家の姉に似ていたので、と付け加えた。
あらそう、と相打ちを打って、さらに櫛などを手に取っていると、聞き慣れた声が背後からやって来た。

「おい。」

振り返ると夫が呆れ顔で立っていた。眉間にくっきりと皺がよっている。
…まあそれも、いつものことだけれど。

「はぐれてしまいました。すいません。」
「いい、俺も失念していた。」

斎藤はそう言いつつ、ちらり、とその若者を見やる。若者はなにやらそそくさと奥へ消えた。その様子があまりに不自然だったので、時尾は不思議な面持ちで見送った。

「行くぞ。」

その声に、慌てて夫の背を追う。と、やんわりと手を掴まれた。夫の手は思っていたより暖かい。が、らしくない行動に、あら、と思っていると、夫は振り返りもせずにこう言った。

「また、はぐれられてはかなわん。」

・・・こういう時は、目を見て言ってくださいな。

でもきっと、そういうことはしない人。だからといって優しくないわけではない。心根はむしろ誰より優しい人。それは知っている。

理由もなく嬉しくて、夫と距離を縮める。腕が触れ合うところまで。
すると、夫はぶっきらぼうに言った。

「皆、親切だったろう。」
「はい?」
「店の者たちが。」
「ええ、何ですか今日はとても商売熱心な方が多いようで。」

冷やかした店の店主などに、持っていけと言って持たされた、飴玉や小さな菓子が、時尾の巾着の中に沢山入っている。

「お断りしたのですが、皆さん持っていけとおっしゃるんですよ。」

一人では食べ切れませんわ、そう言ってころころと笑う時尾を、斎藤は呆れたように横目で見下ろす。

(・・・やれやれ。)

時尾は幼い頃より、典型的な武家で厳しく育てられている。人に嘘をつくなかれ、人を欺くなかれと、徹底して躾けられているので、逆に人に嘘をつかれたり欺かれたりするなどということは、基本的に想像が付かない。ましてや、男の下心なぞ、絶対に考え付かないだろう。
誰であろうと、目が合えば微笑む。お辞儀をされればお辞儀を返す。
それは、人間として美点ではあるが、時にとても危なっかしい。人の暗部ばかり見てきた己は特にそう思う。

「まあ、女が独りで当てもなく店を冷やかしていれば声がかかって仕様が無いだろうな。」
「そのようなものですか?」

時尾は少し首をかしげた。

「鬱陶しいから、俺が側に居てやろう。」

そう言って斎藤は器用に人をよけながら歩いていく。その手にぐいぐい引かれて、時尾も市を進んでいく。そういえば、先程までひっきりなしに店先からかかっていた声がぱったり途絶えた。そこでああ、と、合点がいく。夫が何を言いたかったのか。なぜ自分の手を取ったのか。



名前は、今のところ藤田五郎。警官。無愛想。口も性格も良いほうではない。素直じゃないし、小憎らしい。
熱く激しく、そして辛い過去のある人。それらを全部飲み込んで生きてくれた人。だから誰より温かい人。ただ、その表現が、少し解りづらいだけで。

そして偶に、妬く、ということもあるらしい。

私は、まだまだこの人のことを知らない。
そんなことを考えながら、導かれるままに時尾は市を通り抜けた。






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