沢雨

雨が降っている。

霧のように柔らかく、包むようなそれは肌を濡らしてもなお温かい。夏の終わりのこの街の、白く霞んだ乾いた空気を慰め、癒すように潤していく。
静寂の午後。人の無い辻。暗く沈んだ家々。深い緑の木立と、その奥にひっそりと佇む鳥居。その細かい雫が葉の上で立てるかすかな音すら崇高だ。この世に居るようで、目に映る全てが非現実的な印象を与える。
雨に降られるのも、悪くない。そんなことを男は思った。独り雨の中、立ち尽くす。
世界はこんなにも儚く、脆く、そして美しいのか。そんなことも知らずに生きてきたのか。

己は小さく、そして弱い。
独りのようで、独りになど到底なれない。
目を転じてみれば、いかに愛しい者たちに己は囲まれていることか。だからこそ、次の一歩を踏み出させる。大切なものを失って修羅と呼ばれたその男は、弱い人間であることに今、少し感謝している。最強という華を求めた自身のそんな姿に驚かされている。しかし、それは依然としてその美しいと評される顔に出ることはない。

無感動な顔に張り付く濡れた髪の先で実を結んだ滴が、目の前を定期的に落ちていく。落とした視線をじわりと上げたその先、霧の彼方から影が一つ、ゆっくり此方にやって来た。

「・・・何をしている。」

四乃森、と影が発した声は、おそらく持ち主の意図に反して忘れがたい質量を持つ。
魔都と呼ばれたこの京に、これ程相応しい男は無い。その琥珀の瞳は、現世の時勢に流されること無く、残酷なほど真実しか映さない。それは幸か、それとも不幸か。
結果、この男は未だ真実を求めて闇に棲み、依然闇に飲まれることは無い。

「あんたこそ、此処で何をしている。」

相応しい男が、相応しい街にいるのだ。考えてみれば然程驚く理由はないが、そう問うてみた。影の男は琥珀の瞳をゆらりと少しだけ揺らして、彼方を見遣った。この雨では、煙草も吸えまい。男の口許は、それだけで寂しげに見えた。寂しげな唇が、かすかな音を紡いだ。

「・・・観光。」

そんなわけ、あるか。
血臭をやんわりと放つその体躯は、そのような気楽な営みから最も遠いところに立つ。もっと、真実味のある嘘がつけないものか。そう思うと、奇妙に可笑しい。
この男も案外不器用な生き方しかできないのだ。唐突にそう思った。すると、親近感という不思議な同属意識が湧く。思っても見ない言葉が口をついて出たのはきっとその所為だ。

「斎藤。あんたに礼がしたい。」

斎藤、と呼ばれた羅卒の男は訝しげに眉を寄せ、若干首をかしげた。質問の意図を判じかねたのか。それとも、呼ばれた名に覚えがなかったのか。この男ならどちらも有りだと思った。

「何の。」
「あの時の借りを返しておきたい。」

ああ、と斎藤は言った。そして、面倒臭そうに濡れて艶やかに光る髪を掻き上げた。羅卒服は濡れそぼってもはや黒にしか見えない。それなのに髪を掻く手袋だけがやけに白く見えるのは、何故だろうと四乃森は考える。

「あれは任務だ。志々雄を殺れたんだからそれで・・・。」

斎藤のその言葉を遮るように、違う、と四乃森は言う。
軽く頭を振ると、雨の結晶が左右へ流線形の軌跡を残して飛んだ。

「あれを、助けてくれたと聞いた。」

軽く斎藤の眉が上がった。あれ、と呼ばれた者の事でも思ったのか。意外にも、己の言葉への率直な驚きの反応なのかもしれなかった。
四乃森は鷹揚のない声で続けた。

「その借りを返したい。」

逡巡があった。
その間を埋めるように、斎藤は片手を胸のポケットに入れ軽く掻き回して、煙草を取り出した。当然湿気てしまっているそれを確認するように見つめ、ちっ、と悪態をつく。そんな様を、四乃森は静かに見守った。やはり、この男もまっすぐには進めぬ性質なのだと確信した。
そう思えば、男の発する皮肉も悪態も、全て哀れで滑稽で、胸が締め付けられるようで酷くつらい。

「・・・任務のうちだ。」
「違うな。」

漏れた言葉を、待ち受けていたように否定する。
思いのほかしっかりとした拒斥に、斎藤の目が軽く見開かれた。

「何故そう言える。」
「あんたは、自分で思っている以上に嘘が下手だ。」

四乃森は確信をもって続けた。多くの言葉を交わしたことは無いが、この男の事は何故か心底解るような気がした。

「拙宅の飯は悪くない。旨い酒もある。」
「下戸のお前に何故わかる。」
「あれも、あんたを見れば怒って喜ぶ。」
「・・・言っていることが無茶苦茶だとは思わんか。」
「だが、事実だ。」
「俺は貴様のように暇ではない。」
「・・・観光中、なのだろう。」

淡く煙る世界の中で、男達は黙り込んだ。
ただ、ゆっくりと雨音が流れた。


雨が降っている。
霧のように柔らかく、包むようなそれは肌を濡らしてもなお温かい。夏の終わりのこの街の、白く霞んだ乾いた空気を慰め、癒すように潤していく。

その中に、二人の男の影が在る。とても器用で不器用な二人は、行くことも去ることもできずに向かい合って途方に暮れる。一人は端正だがひどく愛想の無い顔で。向き合うもう一人はこの世の闇を全て見てきたような顔で。 使えない言葉のやり取りには、もうどちらもうんざりしている。互いの事は、知りたくないことまで知っているし、そんなことはわざわざ確かめ合うことも無い。

陽炎のような男が二人。雨が呟く幻のような今。
らしく無いことを、らしく無くやってみても。
言葉にできる理由など、もう要らない。そんなものは、見つからない。

観念したように片方の薄い唇が、最後の言葉を紡ぐ。それは佇む世界のように淡く、薄氷のように冷たく澄んでいた。

「・・・観光ついでに、行ってやる。」

貴様の陰気な茶の湯につき合わされるより、マシだ。
付け加えるように言ったそれは、果たして聞こえていたか。聞こえることを、望んでいたか。
もう片方の男が、どちらの言葉も至極当然だというように頷いて静かに歩み始める。しかし、もうそれは無感動な顔とは言えない。


雨が降っている。
それは、二つの歪な魂を、一時だけ共に歩ませる。初めての事で、最後になるかもしれない一瞬の邂逅。
だから、優しい雨は止まない。止まずに、今は二人を包み込む。






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