今、此処に居る貴女

今、あの女は何をしているのだろう。

ぼんやりとそんなことをふと考えた。不恰好な雲が、視線の先をのんびり流れている。
帝都・東京はいつになく平和だ。結構なことだが、暇が出来ると余計なことを考えるのは人間の常というもの。斎藤もその例にもれない。

残念ながら平和なのは何時も一時の事だ。青い空の下であろうと、黒い闇の中であろうと、悪事というものは人によってしか生まれないものだということを、斎藤はずいぶん昔から知っている。こうしている間も、何処かで何かの悪意が着実に育っているに違いない。
しかし、一瞬でも平和なのは良いことだ。血で血を洗う戦乱の時代より、この一時は余程価値が有る。そういったものの有難さは最近知ったことだ。その為に命を懸ける人生も、まあ悪くない。
が、そのために費さねばならぬ時間と労力たるやどうだ。旧時代を壊すことより、新時代を構築するほうが余程難しいとは、良く言ったものだと感心する。

思えば斗南から東京に戻って以来、まともに家に居ついたことがない。それは己の職務ゆえのことと半ば妻も諦めているように思う。己も、命のやり取りをしているから、どれほど時間が経ったのかなどには無頓着だ。故に、気が付けば2,3週間家を空けていた、などよく有る事で・・・。正直、一緒になってもう3年以上も経っているのだということに先刻気付いて、我ながら驚いた。時とは、こうも早く流れるものだ。

ただ、己が不在の間妻が何をしているか、について思いを馳せたことは無かった。
一日は長い。独りには広すぎるであろうあの家で、妻は毎日何をしているのだろうか。己がいれば、やれ飯だ風呂だ着替えだと、細々と立ち働く女だし、いつ帰っても家の中は整然としているし、それなりに家内を切り盛りして慌しく毎日を過ごしているのだろうとは思うが・・・実際どうなのか。

( 考えてみれば、俺はあの女の何を知っているのだ。)

窓の外を眺めつつ、燐寸を擦る。吐き出した紫煙が、明るく健康的な青い空へ昇っていった。

妻の名は、時尾という。時尾、というのは祐筆時代の名だ。本名は貞という。だが自分が藤田五郎になった時、妻も名を変えると言い張った。酔狂なことだと思ったが、好きにしろと言うと、妻は笑って、私もこれで貴方と共に新しい道を歩めます、と言った。あの女なりの、過去への決着だったのかもしれない。
会津の女は情が深いが時に頑固だ。時尾も時折そんな様子を見せる。あのたおやかな笑みの下に在る、曲げない心根の強さと真直ぐさに、己は酔ったのだと思う。
酔う、といえば・・・時尾は酒を嗜む。一緒になった当時はさすがに遠慮があったのか己に勧められても全く飲まなかったが、よくよく考えれば数々の名酒を産む会津の女だ。嫌いなはずが無い。最近は、二人で酒を飲むこともままある。そして、なかなかに強い。己が言うのだから間違いない。
武家の女らしく、学にも芸にも通じている。料理も裁縫も上手いし、付き合いも、不得手な己を補うようにそつ無くこなす。近所の子供達に、請われて手習いを教えたりもしているらしい。時々、表札を書いてくれ、などと言って来る家もあるようだ。
言葉数の多い女ではない。ああしてくれとか、こうしてくれ、などと自分の望みや感情をはっきり口にする女でもない。黙って伏し目がちに微笑んでいるときは、何かを耐えているときだと解かるようになったのはいつからだろう。

好きな花は、・・・何だったか。いつだったか、そんな話をしたような・・・。
知っているようで、意外と知らぬものだ。

斎藤は、空を眺めながらそんなことを思っていた。

「おっさん、なにアホ面してんねん。」

突然、思考が遮られた。不出来な部下が、己の顔を覗き込んで、目をぱちくりとさせている。そして指で軽く指し示した。

「火、消えてんで。」

右手の指に挟んだ煙草はいつの間にか短くなり、灰になっていた。白い手袋の、人差し指と中指の間に小さな黒ずみを残して、煙草は既に床へ落ちていた。その黒い跡と、床の煙草を交互に眺める。沈黙の中に、そよそよと爽やかな風が舞った。

「・・・帰る。」
「はえっ?! 」

突然の言葉に、張は素っ頓狂な声を上げた。日はまだ高い。この人使いの荒い、しかして意外に勤勉な男は何を言い出すのだろう。

「帰るって、おっさん!まだ昼前やで!!」
「ここ二週間、詰めっぱなしだ。報告書もできたし、向こう当分の勤めはもう十分果たしたと思うがな。」
「でもっ!川路の旦那とか来たら、ワイ何て言うたらええねん!! 」
「・・・そうだな、」

そう言って、小首を傾げて斎藤は考えた。そして、人の悪そうな笑みをその唇に浮かべた。

「発熱、とでも言っておけ。」
「そんな・・・絶対無理やわ・・・。」

誰がそんな戯言を信じるだろう。この殺しても死ななそうな男が、発熱程度で帰宅などするわけが無い。大体、熱など無いだろう。せいぜい馬鹿はその格好だけにしろ、と皮肉混じりに怒鳴られるのが関の山だ。

「な、なんか、もっとこう、真実味のある理由、ないんかいな?! 」
「・・・じゃ、藤田は女房の顔が見たくなったので帰宅した、と言え。」

今度こそ、張は凍りついた。それこそ無理な話だ。
ええっ、とか、わちゃっ、とか訳のわからぬ擬音を発する男に、面倒くさげに視線をくれる。

「貴様、意外に真面目だな。お前も、とっとと消えれば、そんな質問はされんだろうが。」

あ、そうか。
そう言ってポン、と手を打つ張に、阿呆がと呟いて、斎藤は警視局を後にした。




我が家なのだから堂々と玄関から入ればよいのだが、こんな明るい時間に帰宅するのはどうも不思議な気分だ。大体、早く帰った理由を問われたら、何と言えばよいのか。
自宅の門柱を見て初めて、自分の行動の理不尽さに唖然とするが、まあ、此処まで来てしまったのだからと諦めることにする。

掃除をしたばかりなのか、玄関先は綺麗に掃き清められ、水が打ってある。時尾が季節ごとに手を入れている小さな鉢植えにも水が遣られていて、その葉の上の水滴がきらきらと光を反射していた。
そのまま玄関を開けず、庭に回る。在宅しているなら、この陽気だ、縁側を開け放しているに違いない。時尾は、締め切った部屋が嫌いだ。冬の長い土地で育ったせいか、せっかく空にお日様のある日ですもの、と天気の良い日は風通しを良くしているのが常だ。庭の入り口に立つと、思ったとおり、開け放した座敷に、こちらに背を向けて座っている時尾が見えた。

が、座りようが何処かおかしい。
仰々しくきっちり正座をし、背筋を伸ばして何かを見据えている。手のかかる夫が留守にしているのだから、それなりに寛いで、もしかすると常日頃の時尾からは考えられないような惰性が見られるかもしれない、と思っていた斎藤は若干期待を裏切られた気分だった。

そろり、と近づいて少し角度を変えてみると、思った以上に真剣な、というか厳かな面持ちだ。柔らかな笑顔が絶えない日頃が日頃だけに、斎藤は見てはならないものを見てしまったような気分になった。
同時に何が妻にそのような顔をさせているのかも少々気になる。このまま、昼の日中から自宅の庭先で妻を観察する、というのもいささか居心地の悪い状態なので声をかけると、時尾は弾かれたように振り返り、呆然とした声色で言った。

「・・・お早いお戻りですのね。」
「まあ、な。」

縁側に近づきながら、いくら帰った時間は早いとは言え、2週間近く家を空けていたのだから、お早いお戻り、というのもかなり妙だ、と思いはしたが口には出さなかった。

どこか心此処にあらず、といった態の時尾の手には花鋏が握られ、膝の前には花をつけた枝が横たわっている。小さな白い花が重なるように咲き、可憐な球形を成しているそれは、白い花弁と深い緑の葉が対照的で何処かで見たような、と思うのだが、それが何処だったのか、果たして何と言う花だったかも、斎藤には見当が付かない。

「花を生けていたのですが・・・思うようにいきません。」

生けた花から目を逸らさず、時尾はそう言った。
時尾の視線の先にある床の間のそれは、斎藤にはそれなりに立派に映る。
が、当の本人の目指すものではないらしい。その横顔がめずらしく、納得がいかないといったような表情を浮かべていた。この女は、こんな厳しい顔もするのか。己には向けられたことの無いそんな顔を見つめながら、少しだけ驚いていた。

「春になると、母がよくこの花を生けておりました。でも、なかなか、母のようには出来ぬものですね。」

そう言って、時尾はふう、と息を吐いて肩の力を抜き、斎藤を振り返り微笑んだ。

「小手毬、というのです。」
「その花か。」

ええ、と言って時尾は鋏を横へ置き、縁側に腰掛けた斎藤に近づいて、そっとその横へ座った。

「父がこの花をとても好きで・・・庭にも植えておりました。あちらに比べると、此処は本当に暖かいのですね。まだ四月ですのに、もうこの花が咲くのですもの。」

そんな話を聞きながら、斎藤は煙草に火を点す。
そのまま、二人で所在無く空を見上げた。これまで何度二人で空を見たろう。晴れた日もあった。雪の日もあった。決して良い日ばかりではなかった。が、依然としてこの瞬間が斎藤は心地よい。 今、東京で見上げる空は限りなく青く、何処までも澄んでいるようだった。不恰好な雲達が、絶えずのんびり風に身を任せて通り過ぎ、他の雲の群れに合流する。集まった雲が、また風に千切れて流れていく様は、単純でいて何一つ同一なものが無い。 今日は、良い日和だ。そんなことを漠然と思った。

「・・・時尾。」
「はい。」
「仕度をする。手伝え。」

そう言って、斎藤は立ち上がり縁側に上がった。突然の事に、目を見開く時尾に腰から外した日本刀を渡す。

「今日は一日お前に付き合ってやる、と言っているんだ。」

その言葉でやっと斎藤の真意を察した時尾は、まあまあ珍しいこと、と微笑みながら言う。

「そうですねえ、そろそろ夏物の反物も求めたいですし、見たい芝居もありますし・・・久々に姫様のお顔を拝見もしたいですし・・・どうしましょう。」

ちょっとした悪戯で最後に付け加えたそれは、斎藤の眉間の皴を若干深くさせた。それを見て、時尾はくすくす、と笑う。着替えを手伝う為にその背中を追いながら、半日に全部は無理ですよ、と言うと、斎藤はあからさまにほっとした顔をした。それがまた一層時尾を微笑ませる。この夫にも苦手な人物がいるのだ。

「とりあえず、まずはお昼ご飯を頂きたいですわね。」

お蕎麦以外で。
一瞬考えるような素振りはしたものの、夫はその提案をすんなり受け入れたらしい。
よし、と言う様に、斎藤は黙って頷いた。誰も居なくなった座敷に佇む、床の間の小さな白い花も、つられてこくり、とその花弁を揺らす。

花と花鋏、そして煙草の香りだけが残った。






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