桜雲

奇妙な笑い声を上げたかと思えば、今度は軽い寝息。

大の男が酒に呑まれるなど斎藤には到底考えられないが、己の背の上で無遠慮な鼾を掻く男には大した事ではないらしい。もう何度目か解からないほど背を貸している斎藤は、半ばやけになって今日も同室の男をかるって屯所へ向かう。
春も半ばとはいえ、夜の空気はまだまだ冷える。疾の昔に酔いの醒めてしまっている斎藤は、こんなことなら己も呑まれるほど呑んでおけば良かったと後悔した。が、いくら考えてみても、呑まれたというような記憶もなく、一体どのくらい呑めば背の男のようになれるのか、見当もつかない。そういう意味では、その男が羨ましくもある。軽く溜息をつき、揺するようにして、歩くたびにずり落ちる体を再度肩の上へ担ぎ上げると、沖田はなにやら呟いたようだった。起したかと思い、己の肩に顔を埋めている沖田を見遣るが、全くそんな様子もない。屯所まではまだ距離がある。正直に言うと、そろそろ起きてもらいたい。そんなことを考えながら、一歩一歩、歩んでいく。

見上げると、風がでてきたのか、流れる雲の間に月が顔をだしていた。そろそろ満月だな、などと頭の隅でぼんやり考える。

その時、闇に沈んだ京の何処かから、ふと微かに流れる調べが耳に届いた。このあたりに揚屋も茶屋もないはずだが、と不思議に思っていると、それは思いのほか近いところから聞こえてきた。
背に担いだ沖田がなにやら歌っているのだ。勿論言葉にはなっていないが、それは確かに何らかの旋律を奏でていた。

「沖田さん。」
「・・・あぁ・・・。」

起きているなら自分で歩け、と言わんばかりに斎藤は立ち止まって沖田を見るが、当の本人は肩口に顔を埋めたまま、ぶつぶつと旋律を繰り返している。
どうやら自力で歩く気はないらしい。
諦めとも付かぬ溜息をついて歩をすすめた斎藤に、沖田が背から声をかけた。

「さ、いとお。」
「何だ。」
「困ったなあ。」
「・・・今困っているのはあんたでなく俺だ。」

怒りを通り越して呆れている斎藤は、ややぞんざいにそう答えた。

「お前の所為だろお。」

沖田の言葉尻が危うい。余程呑んだに違いない。
酔っ払いと話しても、とは思うが無視するわけにもいかずとりあえず相手をする。

「何が。」
「さいとお、アイツ嫌いだろお。」

アイツ、と沖田が言った女は、今宵の宴の間中斎藤の横に座って勺をしていた。それなりに見目の美しい女だったが、その女の己を見る視線が、反吐が出るほど嫌だった斎藤は、いつに増して終始不機嫌だった。通常、そうなった斎藤の横に侍る程の胆力をもった女はなかなか居ないが、その女は豪胆なのか鈍いのか、宴の間中なんやかやと斎藤に話しかけ、斎藤の不機嫌を助長していた。

許されるなら斬ってやりたいと思うほど、斎藤は媚を売る女が嫌いだった。

そんな時、ほろ酔いの沖田がやって来て座に加わった。
話し上手で、気配り上手。愛想もいい沖田は、女を煽て、持ち上げ、笑わせ、酔わせ、程よい所でその女を他の隊士に引き合わせ、宴会から斎藤を連れ出した。
もちろん、客に酒を飲ませてなんぼの本職を相手にしたのだ。女を引き離すことには成功したものの、沖田はしたたかに酔っていた。ゆえに、斎藤は沖田に背を貸すことになったのだ。

「嫌いならなあ、そう言えよ。お前はなあ、言葉を、惜しむから悪・・・い。」

酔いの回った舌でそう言う沖田に、斎藤は視線もやらずに答える。

「・・・あんただって、大して変わらんだろう。」

沖田という男は、口数こそ多いものの本心は語らない。
何を望んでいるのか。何を求めているのか。この男の明るく気さくな笑顔と調子の良さに、周囲のものはみな騙される。しかし、剣を持てばその笑顔のまま同胞でも斬れる男だ。沖田の本質は、他の誰より恐ろしい。斎藤はそのことを随分前から知っていた。
何の為か、など必要ない。誰の為か、その澱みのない真実だけがこの男の中の深淵に存在している。
斎藤はその出さない心根の邪心の無さを、不思議と心地よくも感じている。だから、共に在る事が嫌いではない。
・・・かといって、この男特有の悪ふざけの対象になるのは御免だが。

口ずさんでいた歌を、ぷつりと止めた沖田が、ふと顔を上げたのが分かった。斎藤の肩口が、冷たい夜の風に触れる。 そして背の上から、沖田は空を見上げて言った。

「俺はいーの。俺はなあ、」

ずっと道化でいいんだよ。
その一瞬だけ、沖田がはっきりと話した。低く、澄んだその声は、京の闇の中を滑るように流れ、何の痕跡も残さずに消えて行った。
斎藤は沖田の言った意味を判じかねていた。確かに沖田は陽気な男だが、沖田を道化と思ったことはない。ただ、言葉そのものの意味よりも、何が沖田に道化と言わしめたのか、そのことが気になった。

少しの沈黙の後、かかか、と沖田は笑った。そして再び、斎藤の痩せた肩口は温かさと重さを受け入れた。
斎藤は、何も言わなかった。何も言えなかった。

「・・・困ったなあ、さいとお・・・。」

その顔をあげることもなく、斎藤の肩にぐったりと頭を預けたまま沖田は、場違いなほど明るい声で言った。そして、またあの調べを低く奏でた。それは、ひどく寂しい旋律だった。

しばらくそうして歩いていた斎藤の鼻先を、突然白い何かがはらり、と落ちた。おや、と思って見上げると、其処は発光するような薄紅色に満たされている。
連なる屋敷の壁を越えて張り出した桜の枝が、満開の花を付け、雲のように二人の頭上を覆っていた。それは、一瞬にして、世界を幽玄の彼方へ運んだ。足元も、見えないほどの花弁で満たされている。吹く風に合わせて、蠢くように桜が踊った。

立ち止まった斎藤に合わせるように、沖田が軽く目線を上げて言う。

「雪だ・・・。」
「違うよ、沖田さん。」
「綺麗だなあ。」
「・・・桜だよ。」

雪が綺麗だ、という沖田に斎藤がそう言うと、背の上の男は拗ねた様に答えた。

「雪で、いいんだよお。」
「・・・。」
「なあ、雪、だ、ろお。」
「・・・そうだな。」

もう、眠りに落ちる寸前なのかもしれない。たどたどしくなっていく沖田の言葉に、真面目に答えるのも馬鹿馬鹿しくなって、斎藤はそう答えた。桜であろうと、雪であろうと、今の己等には大差はないのかもしれない、とそう思った。

「ほらなあ・・・。素直じゃないぞお、さいとおはじめえ。」

我が意を得たり、と途端に沖田が勢いづく。やれやれと溜息をつきながら斎藤は言った。

「起きたなら歩いてくれないか。」
「・・・。」
「酒臭いんだよ、沖田さん。」
「・・・う・・・。」

沖田は何も言わなくなった。
都合が悪くなったら、これだ。いっそ、ずっと黙っていろ。
いい加減、疲れていた斎藤は若干苛立ちを込めてそう言った。
すると、肩口に顔を埋めた沖田がくく、と笑って小さく呟いた。

「・・・桜餅が喰いたい。」
「あんた・・・。」

先程まで、雪だと言っていた口から出た言葉とは思えないが、らしいといえば、これ以上沖田らしい言葉はない。呆れ果てて沖田を見遣った斎藤は軽く笑った。もう笑うしかなかった。そして、一度始まった衝動は、なかなか治まりそうにない。

何故だか、とても可笑しくて仕様が無かった。
だらしなく酔ってしまっている男のことも、そんな男に背を貸している己も、攘夷も、佐幕も、勤皇も、変わらず満ちて欠けていく月も、信じることも、裏切ることも、雪のように降る桜も。何もかもが絵空事のようで可笑しかった。
斎藤の笑いに誘われたように、沖田も肩口で声を震わせる。
二人の奏でる震動が、貸した背と、預けた胸を伝って互いの体に届いた。

斎藤はその日、桜に見送られながら屯所まで沖田を背負って帰った。沖田は終始、同じ調べを口ずさみ、引き摺られながらも自ら歩くことはなかった。斎藤も、もう歩けとは言わなかった。

あれは確かに雪だった。その二人だけの真実を、奏でた旋律と共に互いの胸の奥底にひっそりと留めた。






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