確信犯
うっかり場所も聞かずに飛び出してしまったので、迷ってしまった。せめて場所だけでも聞いておけばよかったと自分の迂闊さを今更ながら恥じるが後の祭りで、道を聞きつつ目的地にたどり着いたときには、日もとっぷり暮れていた。路地のいたるところから、夕餉のいい香りが流れてきて、それにつられて腹が鳴る。いっそ出直すかとも思ったが、こういうことは勢いが大事だ。
乙女の涙、高くつくんだから。
そう思いながら、巻町操は瀟洒な造りの警視局をぐっと見上げた。
さて、何処から入ろうか。正面玄関は流石にやばそうだが、塀はそれほど高くない。いい塩梅に、塀の向こうには高い銀杏の木。人通りの途絶えたのを見計らって、十分助走をつけて塀を飛び越え、色づき始めた葉の茂る枝の上に腰掛ける。
警察だけに、此処は年中無休だ。まだ建物の中には沢山の人が居る。灯りの灯った窓のその何れかが、あの性悪男の部屋に違いない。その姿を見逃すまいと窓々に目をやると、闇に沈んだ一つの部屋が目に留まった。窓は開け放してある。
(警察の癖に無用心ね。)
そう思うが、渡りに船とはこのことだ。遠慮なく、利用させてもらうことにした。
たん、と軽い音と共に、操は暗く闇に沈む部屋に忍び込んだ。窓枠の横の暗がりに身を潜めて、目が慣れるのを待つ。月がやんわりと照らす目の前には椅子と執務机。書きかけの書類がきちんと重ねておいてある。その横に、白い手袋。これもまたきちんと書類と平行に佇んでいた。この部屋の主は、かなり几帳面な性質らしい。そのくせ、窓を開けたまま退出するとは間抜けだ。操は少し笑った。
部屋の奥はなにやら書庫のようになっているらしいが、暗くて見えない。
そろり、と足を踏み出したその時、操は不意に懐かしい感覚に襲われた。
(これ・・・知ってる。)
空気の中にたゆとうそれは、懐かしい不思議な苦さと甘さ。あの、煙草の香りだ。
机の上で白く輝く手袋をそっと抱えてみると、その香りは一層強くなった。
(あいつのだ・・・。)
根拠はこの香りだけ。でも、そう確信した。
白い手袋。あたしの頭を撫でた、あの手。
案外細くて消えそうな手なんだ。あたしは知ってる。
・・・本当に、生きてたんだ。
そう実感した。先ほどまで自分を突き動かしていた怒りが、波のように引いていくのが返す返すも腹立たしい。同時に何故か、じわ、と目が熱くなった。いきなりやってきた胸の奥の理不尽な衝動に、すん、と鼻をすすったその時、暗がりで何かが動いた。
「・・・悪戯もほどほどにしとけよ、鼬。」
いきなり掛けられた言葉に、全身、総毛立つ。驚いて声も出ない。闇に目を凝らすと、壁際に置いた長椅子の肘掛から細い足が突き出ている。その足の向こうにある、輝く金色の双瞳。
「・・・サイテー。」
「それはこっちの台詞だ。寝入りっぱなを起こしやがって。」
「起きてたんなら、何で声掛けないのよ。」
「俺の勝手だ。」
そう言って斎藤はその身を横たえた長椅子から音も無く立ち上がり、若干乱れた髪を軽く掻きあげながら、澱みない足取りで操の横を通り過ぎた。そして、窓に向い合う様にして机の端に腰掛ける。その視線の向こうには、空高く月が浮かんでいた。
「で、お前此処で何をしている。」
「勿論、あんたに言いたいことがあって来たのよ。」
胸元から出した煙草の箱を軽く揺すり、飛び出した一本を器用に咥えながら、斎藤は目線を流して操を見た。
「お前が俺に何の用だ?」
「・・・何で黙ってたのよ。」
「何が。」
「生きてるんなら、一言言ってくれてもバチは当たんないってもんよ!」
もどかしい感情が爆発する。
この男は、悪びれた様子すらない。それがどうした、と操の怒りもどこ吹く風だ。
「あたしの貴重な乙女の涙、高くつくんだからね!」
びし、と人差し指で己の鼻先を指す操を、斎藤は黙って眺めた。
少しばかりの沈黙の後、ふん、と言って腰掛けた机の端から立ち上がり、その引き出しを漁って燐寸を取り出す。火をつけた煙草を、やけにゆっくりとふかしながら、窓を背に、斎藤は椅子へ深く身を沈めた。
そして、聞いているのかと憤る操に朗々と言う。
「2、3質問が有る。お前の話については、その答え次第で聞いてやらんでもない。」
虚ろな月光を半身に浴びつつ、軽く煙草の灰を落とす。
「ではまず初めの質問。その“ナントカの涙”だが、」
「乙女だ、乙女っ!」
頭を掻き毟ってそういきり立つ操をにやりと見て、斎藤は続ける。
「つまり、お前は泣いたんだな。俺が死んだと聞いて。」
ほお、そうか。泣くほど心配したということなんだな、お前は。
にやにやと笑ってそう言われて、操はいきなり気恥ずかしくなった。
そう言えば、何であたしは、あんなに泣いたんだろう?簡単に浮かぶ答えを頭の中で全否定する。
「いやあの、・・・別に特別心配したとか、そういう訳じゃ・・・。」
慌てて身振り手振りで取り繕う操を完全に無視して、斎藤は続ける。
「で、次の質問だ。」
唇から流れるように、白い煙がふわりと流れて薄暗がりの天井に溶けていく。
「その、乙女とやらは何処に?」
ぶち、と何かが切れる音を操は聞いた。
斎藤を睨みつけ、拳を握り締める。それは小刻みに震えていた。
「・・・あんたなんかっ、・・・あんたなんかっ、」
大っ嫌いだー!!
そう叫んだ操を、軽く眼を見開いて斎藤は見た。そして唇の端を軽く緩めてくつくつと笑う。
最低だ。この男は、信じられないほど憎らしい。
こんな奴心配して損した。どうにでもなればいい。大体、コイツが簡単に死ぬわけ無い。憎まれモノは世に憚る、と言うではないか。
操の怒り狂う頭の隅で、そんな声がする。その声のままに、窓から飛び出そうとすると、はっしと腕を掴まれた。あの細い指にこんな力があるのかと、驚くほど強く。反射的に腕を振り払おうとするが、いかんせん力では敵わない。逆にぐ、と引き寄せられた。
「放してよっ、もう知らないんだからね、あんたなんか!」
「まだ、だ。」
「何が!」
「最後の質問。」
「聞いてやるから早く言いなさいよ!」
眦を吊り上げて叫ぶようにそう言う操を、からかうように見つめていた斎藤の唇の端から、す、と笑みが消えた。椅子に座ったまま、くるりと身を回し操に向き合う。月光を浴びて煌く黄金の瞳。その色を見た途端、操の怒りに任せた力が、ふっと抜けた。
それを見届けるようにして、斎藤は静かに問いかけた。
「・・・どうして欲しい。」
深い声で紡がれた言葉と共に、黄金の瞳がゆっくりと、そして静かに操を見上げた。そこには、揶揄も嘲笑もない。唯、答えを模索する直向な色があるだけだ。
「乙女の涙に報いるには、俺はどうすればいい。」
その声が、操の胸の奥へことり、と落ちた。斎藤の言葉を耳では認識したものの、頭と心が追いつかない。一体、コイツは何を言っているのだろう。なんで、なんで、その三文字だけが無秩序に己の中に存在する。
ぼんやりとしていたら突然、ひやり、とした感覚を頬に感じてはっとする。腕を掴んでいた手が、頬に触れていた。
手袋をしていない手。あたしを守ってくれた手。生きている、その手。
何かが猛烈な勢いで己の中を駆けている。それがどんな感情なのかももうわからなくなってしまって、知らず知らずのうちに操は俯いていた。
あんたが優しいのは反則だ。
そんな真面目な顔したって許してなんかやらない。
十八番の皮肉は何処にいったのよ。
冷たい何かが流れた。
「・・・何だ。これも高くつくんじゃないのか?」
おいおい勘弁してくれ、と、打って変わってからかう声に、悔しさが込み上げてたまらない。
己を覗き込んで意地悪に笑うその面を、ひっぱたいてやろうかと思うのだが、手が震えて動かない。涙は止まらないし、格好悪いし、そんな自分が大嫌いだ。俯いたまま、ぐい、と掌で涙をぬぐう。抑えようとすればするほど、込み上げるように胸の奥から次の波動が遣って来る。情け無い気持ちで、逃げ出したくて、今度こそ窓から飛び出してやろうとすると、頭の上にがし、と力強い手を感じた。そしてそれは乱暴に操の頭をぐりぐりとかき混ぜるように撫でた。
「な!なにすんのよっ!!!」
「・・・さて。行くか。」
言われた意味が解からず、操は立ち上がった斎藤を見上げる。それをちらりと見下ろす琥珀が、今は違った色に見える。あの白い手袋が、きゅ、と鳴って、きちんと几帳面に細い手を覆った。
「いくら鼬娘でも、夜間に独り歩きはさせられん。送ってやるから、とっとと来い。」
「いいよ、自力で帰れる。」
「独りで帰したなんて知れてみろ。・・・俺がお前の所の御頭に斬られちまう。」
無論、簡単に斬られてやるつもりも無いがな。
そう言いながら、斎藤はソードラックに刀を掛けた。
扉に向かって歩き出したところでふと振り返る。操が付いて来る気配を感じない。
「・・・お前何をしている。」
操はまさに、窓から出ようとしているところだった。
「いや、やっぱこの服じゃ、正面玄関はまずいかなあ、と・・・」
先ほどの涙は何処へ行ったものか。纏った忍装束を軽く指し、少しばかり赤い目をして、かき回されて乱れてしまった珍妙な髪もそのままに、てへへと笑う操に、斎藤はやれやれと言いつつ溜息をつく。そして、操に歩み寄り、同じく窓枠に足をかけた。ふわ、と煙草の香りが操を包んだ。
「まったく、何で俺までこんな盗人のようなことを・・・。」
「密偵も泥棒も似たようなもんでしょ。」
「大違いだ、ど阿呆。」
「・・・足手まといにならないでよね。」
「そういう口はな、男の前で上手く泣けるようになってから利け、鼬。」
イタチじゃないわよ。乙女!
操は口の中でそう小さく呟いた。斎藤はそんな姿を目の端で捕らえて、軽く笑った。
初秋の風は、身を引き締めるように冷たく腫れた目蓋に心地よい。その風に吹かれた雲の切々が、やんわり月を隠していた。
たん、という軽い音が、二度。
窓から、金色をした銀杏へ。銀杏の枝から塀の外へ。
不揃な二つの影が、現れた満天の星空に優しく跳ねた。
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