愛しき訓戒

「なりませぬ。」

厳しい顔をして玄関先に座り、妻はちらりと夫を見上げた。
その日、藤田家の玄関先は柔らかい朝の日差しと、いつにない緊迫感に包まれていた。

「ならぬものは、ならぬのです。」

凛とした声。きっちり伸ばした背中。軽く眉間に皴をよせて、きつい目をして己を見上げている妻。
そんな顔も意外に艶のあって良いものだと、朝っぱらから埒も無い事に思いが至るのは、昨日から己を悩ますこの微熱の所為だろうか。そんなことを考えながら妻の脇を通り、上がり口に腰掛け革靴に足を滑り入れると、背中で軽い溜息が聞こえた。

「・・・と申し上げても、聞いてくださいそうにありませんね。」

時尾が軽く頭を振ってそう言うのを、肩越しで見て斎藤は意地悪く笑う。

「そうだな。折角だから、お前のその期待に答えてやろう。」
「裏切ってくださってもよろしゅうございますよ。」
「妻殿を裏切るなど、俺は考えたこともないぞ。」
「・・・貴方というお人は・・・。」

悪びれもせず澄ました顔で言ってのける斎藤に、時尾は今度こそこれ見よがしに大きく溜息をついた。

「もう、お手上げでございますよ。」

でも、と言い置いて時尾は続ける。いろいろと言った所で、諦めはしないらしい。妻はなかなか手強い、と斎藤は心中で密かに感心する。

「お薬だけは飲んでくださいませんと。」
「あんな藪医者の薬など、効くわけがなかろうが。」
「あら、私の風邪には効きましたよ。」
「・・・苦いんだよ。」

親の敵を思い出したような剣呑な目をしてそんな子供じみた事を言う夫を、信じられないといった態でげんなりと時尾は見た。

「昔から良薬は口に苦し、と申しますでしょう?」
「昔から、大人になったら苦いものは金輪際口にせんと決めていた。武人として、初志は貫徹すべきだろう。」

真面目な顔をしてとんでもなく理不尽な言い訳をする夫に、終には時尾も笑いだす。そして、同時に頬に軽く手を添え、虚空を覗いて考えるような素振りをした。
それを横目で見る斎藤は、若干居心地が悪い。妻がこの仕草をする時は、何かとんでもない事を言い出す時だ。この攻防は早めに切り上げた方が良さそうに思う。靴紐をしっかと結び、立ち上がった。

そんな夫の思惑を無視するように、時尾は至極さらりと言う。

「甘ければよろしいのですね?」

何か・・・、特に己が聞きたくない何かを言いだすに違いないとは思ってはいたものの、正直予想外の時尾の言葉に、斎藤は一瞬返事に詰まる。だが、ここで怯むわけにはいかない。
出来るだけ低く真剣な、家長の威厳を損なわぬ調子で答えた。

「・・・そういうことではない。」

が、悲しいかなこの妻には、己の声音の高低など効果はないらしい。にっこりと微笑みを返された。

「先生に子供用のお薬を頂いてまいりましょう。」
「要らん。」
「後で、局にお持ちしましょうね。」
「・・・時尾。」

それはまずい。
やめてくれ、という希望を込めて名を呼ぶと、呼ばれた妻は微笑んだ瞳をそのままに、厳粛な声で言った。

「ではこれをお持ちくださいますか?」

時尾は膝をついて立ち上がり、ずい、と斎藤の胸元に薬の入った袋を差し出す。

「お体のことですから、私も引けませぬ。」

きらり、とその黒眼がちな瞳が光った。光らせた眼をそのままにやんわりと笑うから、言い知れぬ迫力がある。

「お持ちくださいませ。後生ですから。」

その目線を逸らさず、じっと時尾は斎藤を見る。それは手弱女のお願い、などという生易しいものではない。表情も穏やかで、その声音も優しく響くものの、受け入れねば家から出さぬという程の気迫だ。それとも、妻を相手にそのように感じる己が弱いのか。
何れにせよ気迫で己と勝負できるのは、現世ではもうこの女だけになってしまったように思う。

斎藤は、何やら発しようとしていた言葉をぐ、っと飲み込んで、差し出された小さな袋に手を伸ばし、それを黙って制服の胸のポケットへ押し込んだ。
同時に、それだけで薬の苦味でも思い出したのか心底嫌そうな顔をする。時尾はその顔へ慈母の微笑みを向け、頷いた。

どうやら、これで妻殿は満足したらしい。
安堵の溜息を漏らす妻を眺めながら斎藤は頭の隅で、妻を菩薩のような女と言った男がいたな、などと考えた。そうならば、これほど厳しく手強い菩薩は居まい。その上、抗えぬ愛嬌があるのだから性質が悪い。
菩薩が相手なら、端から勝ち目など在るはずが無いわけだ。そんな理由を密かに作り上げる己の不甲斐無さを諦めの胸中で受け入れながら、差し出された真新しい白い手袋をはめ、警帽を深く被って振り返らずに言う。

「・・・行ってくる。」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ。」

出仕を告げる愛想の無い声と、それを見送る柔らかい声。
藤田家の朝は、爽やかな初夏の風に満たされて、毎朝繰り返される何時もどおりの言葉と共に今日も無事終わった。






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