触れ合う、それは

夜中にふと目を覚ますと、そこには妻はいなかった。
白い寝具が空白のようにみえる。そこに属しているべきものが見えない、というのは、なかなか居心地の悪いものである。
少し待ってみたが、一向に戻ってくる気配がない。時計はすでに2時を回っている。具合でも悪いのだろうか…。何度か寝返りをうった後、斉藤は寝床からゆっくり起き上がった。


時尾は庭に面した縁側に座り、雨戸を少しあけて空を見ていた。暗く沈んだ居間に、彼女の輪郭だけが浮かび上がっている。外は月が出ているのだろう。やけに風景が白く見える。

人の気配に気がついたのか、は、っと時尾が振り返る。

「申し訳ありません。起こしてしまいましたか。」

答えずに、座った時尾の傍らに立ち、空を見上げる。空が白くかすむほど、今日の月は美しい。

「明るいな。もう直ぐ満月か。」
「そうですね。」

その後、お互い黙って月を見上げていた。
もともと、会話が多い夫婦ではない。話さなくても居心地がいいのだから、わざわざ話すこともないし、斉藤自身が多弁ではないので通常ならばまず、話しかけるとうこともしない。ただ、深夜じっと座って月を見ている妻に、いつもとは違う何かを感じて、珍しく問うた。

「どうかしたのか。」

我ながら、もっと気の利いた聞き方ができぬものかと思うが、性分なので致し方ない。
時尾はゆっくりと斉藤に顔を向け、その目を見つめた。

「何か、あったか。」

いえ、そう短く答えて、また空を眺めている。その横顔を眺めながら、少し痩せたな、などと考える。
時尾がおもむろに口を開いた。

「初めて旦那さまにお会いしたのは、京でございました。」
「…そう、だったか?」

いくらか記憶をさかのぼってはみたが、会った、という印象はない。

「拝見した、といったほうがよろしいでしょうね。新撰組の斉藤一さま、を。その時分、一時でしたが、わたくしも京に上ったことがございます。」
「…。」
「旦那さまのお姿、素敵でしたわ。」
「…過去形か。ずいぶんだな。」

時尾は少し笑った。

「次にお会いしたときには、旦那さまは怪我をしておいででした。」
「…若松城か。」

時尾はゆっくりと頷く。

「あの時は、もうお互い生きてお会いすることもかなわぬと思いました。」

会津戦争では若松城は最後の砦であった。時尾は会津公の義姉にあたる照姫に仕えていたので、城内で姫を守りつつ、負傷者の世話などをしていた。其の時に言葉を交わしたことは、覚えている。

「あの時も、お前は月を見ていたな。」

度重なる負傷で城内に運び込まれたとき、斉藤は不覚にも気を失った。目覚めて初めて目に入ったのが、自分の傍らに座って背を向け、障子をあけて月を見ていた時尾だった。城外では血を血で洗う戦いが続いているというのに、そして刻一刻と落城が近づいているというのに、やけに落ち着いて月などみている時尾を、斉藤はそのとき不気味だと思った。
それほど、城が落ちた時に、残った女達の運命は火を見るより明らかだった。
戦場に戻る際、斉藤は時尾に尋ねた。この戦に、もはや勝機はない。見たところ、それなりの家の者だろう。なぜ、逃げない、と。
其の時、この女は、まっすぐ斉藤を見て、こう応えたのだ。

どのような道でも、一度賭けた道。この道を行くのがわたくしの務め、と。

微笑みながらそう静かに言い切った。白い月光、空を赤く染める炎、そして浮かぶ満月。そして闇のなか、ひっそりと笑う女。それは美しくも、壮絶な風景であった。

「生意気を申したものです。」
「そうか?俺は、結構気に入っていたぞ。だから斗南で会ったときも、お前を覚えていた。」

若こうございました、といって時尾は少し斉藤を振り返る。

「そして、旦那さまと一緒になって、東京へやってまいりました。あれからもう、5年も経つのですね。」
「早いものだ。」
「本当に。」

月が二人を照らしている。月光を受けながら、時尾が言った。

「随分、遠くまで来たものだと、思ったのです。」

声が、少しかすれている。

「士族というのは、男に生まれても女に生まれても、厄介なものです。どこに続くかわからぬ道を、ただただ信じて進むしかない…。たった独りになっても、歩んでいくしかございません。」

ぽつり、ぽつりと言葉をつむぐ。

「急に恐ろしくなったのです。若松城で月を見ていたときは、このようなことは思ってもおりませんでした。恐ろしいことなど、何もなかった…。」

細い肩が、小さく揺れていた。うつむいて、膝の上で握り締めた手をじっと見つめている。

「旦那さまの戻らぬ日が、いつか来るのではと思うと、わたくしは…。」

時尾は泣いていた。声を上げるで無く、嗚咽をもらすでも無く、ただ、静かに、はたはたと溢れ出る涙が、頬を伝っている。


「つまらぬ女です。」

とどめなく流れる涙が、手の甲に落ち、小さな音をたてている。

女に泣かれるのは初めてではない。が、妻には泣かれたためしがないので、斉藤の心中は決して穏やかではなかった。
こういうとき、何と言えばよいのだろう。どうしてやれば、強い女の、本音の涙を止めてやれるのだろう。一瞬考えてみたものの、優しい言葉などという手札はもともと無いようだった。自分はこういうとき、つくづく役に立たない。小さくため息をつく。

斉藤は、時尾の後ろに肩膝をつき、両手で静かに時尾を抱き寄せた。

「すまんな、これくらいしかしてやれん。」

一瞬たじろぐが、黙って、身を委ねる。夫の体温が伝わってくる。鼓動を感じる。煙草の香りかする。首筋で息遣いを感じる。
やんわりと、目を閉じた。まぶたの裏の月が、じんわりとかすんでゆく。時尾は己の体に回された腕にそっと、手を添えた。

ああ、この人は生きている、生きて私のそばに居る。それだけで、なぜか救われた気分になる。自分の抱えた漠然とした不安が、夫の行動ひとつで、あまりにもあっけなく消えていくのを、時尾は黙って味わっていた。幸せな気分で、降伏する。

「ここに、戻る。俺は、お前の所へ戻る。」

斉藤はゆっくりとそう言い、そして急に我に帰ったように笑った。くつくつと声を潜めて、珍しく笑う夫に、時尾は聞いた。

「何がおかしいのです?」
「いや、俺も、弱くなったものだと思ってな。戻る事など、昔は考えたこともなかったが。俺も案外つまらぬ男だ。」

それを聞いて、時尾は目を見張った。腕の中で身をよじり、斉藤に顔を向ける。

「まあ、あなた様から弱くなったなどと、聞く日が来るとは思っても見ませんでしたよ。」
「俺もだ。」
「どんな道でも、生きてみるものですね。」
「まだ始まったばかりだ。この道は長いぞ。」
「望むところでございます。」
「…お前、さっきまでの殊勝な態度は何処へいった?」
「何処へいったのでございましょうねえ。」

お互い顔を見合わせ、静かに笑う。涙の、最後の一滴が、微笑んだ眦で丸くなってゆっくりと落ち、軌跡を頬に残した。

月は中天を越え、やさしく二人を包んでいる。






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