墜栗雨

遠く彼方より忍び込むように訪れる微かな音。

爪弾くような音が密やかに朝の静寂を掻き回し、そしてはたはたと流れ落ちる囁きに変わる。声高に主張するような不躾な音ではないそれは、やがて胎内で漂っているかのような安心感を齎す和音となる。軽く開けた障子の隙間から、庭先の木々の潤った緑の香りが、冷たい風に運ばれて頬を心地よく撫でる。それらに優しく促されるように、時尾はゆっくりと目を覚ました。

おそらく何時も起床する時間にはなっているのだろう。
雨の為未だ薄暗い世界が、思わぬ寝坊をさせたらしい。顔を軽く横にめぐらせて見ると、静かに横たわる夫の輪郭が薄闇の中にぼんやりと見えた。
当たり前の事なのに、その当たり前が愛おしい。そんな一瞬を、どれだけ待ち望んだことだろう。家を空けがちな夫が、無事に戻ってくる度に、時尾は共に在る事の奇跡を噛み締める。
仕事に没頭する性質な夫は、きっと疲れているに違いない。
起さぬようにと細心の注意を払って、そっと立ち上がろうとしたその時、何かにぐいと袖を引かれて時尾の視界が反転した。

後ろから抱きすくめられるようにして、あっという間に時尾は隣で静かに寝ていたはずの夫の腕の中に納まっていた。有無を言わぬ素早さで、その温かい床の中に引き込まれる。

そして、はたと気が付けば、長い腕が己の体幹にしっかりと回されている。背中に感じる夫は、さぞかし満足した顔をしているに違いない。その意地悪な笑みが目に浮かぶようだ。まんまと思い通りになってしまった自分が、正直口惜しい。
昔から、突拍子も無いことをして己を驚かす男だった。だが、長い付き合いになった所為か、それともそんな悪戯にもそろそろ慣れてきた所為か、驚きよりも諦めが先にたつ。

「・・・手際のよろしいこと。何処で覚えておいでです。」

そう溜息混じりに呟くと、項の辺りで寝起きの嗄れた声がする。

「どちらかというと、習うより慣れろ、の類だな。」
「・・・そのようなことは、お願いですから胸の中に留めて置いてくださいませ。」

憮然と言う時尾に答えるように、斎藤は喉の奥で笑った。
雨音と共に、気だるいような其れでいて満たされていくような、穏やかなで静謐な時間が流れる。雨の音と互いの鼓動とだけで、世界はこれほどに豊かだ。そんなことを思いながら、時尾は回された腕にそっと手を添えた。

「雨ですね。」
「・・・ああ。」
「せっかくのお休みでしたのに。」
「構わんさ、晴れても寝て過ごすつもりだったからな。」

欠伸交じりにのんびりとそう言う斎藤に、咎める様に時尾が言う。

「またそんな、だらしの無い・・・。」
「駄目か。」

思いがけない夫の拗ねた様な声に、一瞬間が開く。

「・・・お好きに。」
「何だ、今日は随分甘いじゃないか。」
「駄目だと申し上げても、為さるくせに。」

ならぬものはならぬと、そう返されるかと思っていた斎藤は、返ってきた意外な言葉に、そうなのかと問い返す。本人の自覚のなさに呆れたのか、時尾はそうですよと事も無げにさらりと言ってのけた。
そうまであっさり肯定されると、立つ瀬が無い。故にらしくも無く言い訳じみたことを口にする。

「俺は非番だ。」
「存じ上げております。」
「だからお前も、休め。」

その理不尽極まりない言葉に、また無理無体を仰ってと、時尾は肩越しに夫を見遣る。妻のする家事を必要としているのは、実際妻自身ではなく夫の方なのだ。

「・・・本当に妻も非番で、宜しいのですか。」
「いいんじゃないか、偶には。」

斎藤は軽く目を閉じている。本気でこのまま寝入ってしまうつもりらしい。

「雨も降っていることだしな。」
「雨にそんなつもりはないでしょう。」

それに雨の度に朝寝をしていたら、梅雨の間中寝て無くてはいけませんよ、と腕の中で時尾は言う。
ああ其れも悪くないなと答えると、妻はあからさまに溜息をつき、貴方というお人は、と小さく笑った。
色々と言った所で、最後は笑って許してしまえる。この女の、そんなおおらかな部分に己は救われているのかもしれないと、斎藤は腕の中の体温を感じながら思った。

少しの逡巡の後、意を決したように時尾が言う。

「・・・では、折角のお言葉ですし、今日は思い切ってだらし無くしてみます。」
「それは、それは。妻殿にはご苦労なことだ。慣れぬ事につき合わせて、申し訳ない。」

揶揄ったつもりが、真面目な声音でやってみますなどと言う妻に、斎藤は込み上げる笑いを噛み殺す。やはり、妻は己を飽きさせない。それだけで、戻って来た甲斐があるというものだ 。
時尾の指が時折、思い出したように己の腕を軽く撫でる。それが、徐々に眠気を誘う。眠りに落ちたいような、落ちてしまっては勿体無いような、妙な気分だ。

「雨だな。」
「・・・ええ。」
「折角の非番だったのだが。」
「どうせ寝て過ごすおつもりだったのでしょう。」

確かにそう言ったのは己なので、二の句が告げない。
しばらくそのまま雨音を楽しんだ。腕を撫でる時尾の指が、徐々に緩慢になっていく。

「・・・時尾。」

返事が無い。
半身を起して覗き込んでみると、時尾は既に軽い寝息を立て始めている。朝寝をすると決めた以上、妻は徹底的にその決定を完遂するつもりらしい。その穏やかで平和な寝顔を見ながら、斎藤は胸の中で呟いた。

(・・・思い切りすぎだと思うが・・・。)

まあ、いい。厳しい妻殿の許可付の朝寝だ。それも、その本人が腕の中ときている。生真面目なこの女がこれほど隙を見せることなど、滅多に無い。
奇妙な優越感と若干の寂寥に満たされて、斎藤は時尾に回した腕をそっと解き、枕元に投げ置いた煙草に片手を伸ばした。

朝寝髪の眩しい妻の寝顔を見ながら一服、というのも悪くない。雨も降っていることだし・・・。
ごろりと寝返りを打ち、箱の中から煙草を一本咥え出しながら、そのようなことをぼんやりと考える。

雨は止む様子も無い。
しとしと、長々と陰気に降るこの季節は鬱陶しいことこの上無いが、このような楽しみが付いてくるなら話は別だ。当分、梅雨で構わない。
燐寸は煙草より若干はなれたところに鎮座している。眠ってしまった妻を起さぬようにと、そっと身を伸ばすようにして腕を伸ばしたその時、

「・・・なりませぬよ。」

突然発せられた低い声に、不覚にもぎくりとした。
見遣った妻の肩は、堪え切れぬ笑いで震えている。おそらくしてやったりと満足げな顔をしているに違いない。その顔が目に浮かぶようで、聊か悔しい。無駄と解って抵抗してみる。

「何故、解る。」
「寝煙草なんて、だらしの無い・・・。」
「・・・背中に目でもあるのか、お前。」
「習うより慣れろ、の類です。」

柔らかい雨音が、やんわりと二人の背を包む。 煙草を忘れた薄い唇が、振り返った妻の心地よい笑みを奏でる喉元にゆっくりと堕ちた。





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