爪紅

夫のその行動に気が付いたのは、何度目の夏だっただろう。
日を決めて行われるものではない。ただ、夏がそろそろ終わろうかという日、それも蜩がかなかなと夏の余韻を奏で、夕暮れの朱に染まった空の美しさに、はっと息を飲むような日に、それはひっそりとそして静かに行われる。
習慣というよりは儀式、と呼んだ方がよいかもしれない。
縁側の一角に陣取って、ただなんとなしに空など眺めつつ夫は酒を呑む。それも、味わうように、かみ締めるようにして。時折庭先に目を遣り、だからといって何かを眺めているわけでもなく、どこか不思議な眼差しで虚空を彷徨うのだ。
そんな夜は、部屋の明かりを少しだけ落とし、時尾は夫を独りにする。
特にそうせよと命じられたわけではないが、そうしている夫を見ることが、何故か神域を侵しているような気分になるからだ。そして、そうすべきなのだと時尾は思っている。

夫は誰かと会話をしている。言葉の追いつかない所で、誰かと、何かを。
光と闇が交差する一瞬の、その夕闇を辿ってくる存在と。
いつしかそう思うようになった。


予感はあった。
その日は夕方より珍しい片時雨で、空の半分だけが奇妙に明るかった。同じ空の下にいて、一方では雨が降り、他方では日が差している。天気とは空の気紛れなどと、よく言ったものだと、仕舞い忘れた軒先の風鈴を眺めながら時尾はそんなことを思っていた。
その時雨も足早に去り、雨後の風が心地よく肌を撫でるようになった頃、燃え盛る様な夕焼けを背負って斎藤は戻ってきた。迎えた時尾にちらりと目を遣り、そして無言で軽く頷く。その手には、新しく買い求めた清酒が握られていた。
それで、ああやはり、と時尾は胸中で呟いた。
何時もの通り、笑顔で夫を迎える。刀を受け取り、着替えを手伝い、何一つ普段と変わりはしない。ただ、心のどこかで芽生える小さな疼き消す方法が無く、縁側へと消えていく夫を見送りながら時尾は小さく溜息をついた。

年に一度の、柔らかな拒絶。
これまで過ごしてきた時間と、これから共に過ごす時間を考えれば、瞬きの一瞬ほどの時間だ。そう頭では解っていても、その刹那に感じる永久が身を焼くほどに切ない。そのたった一言を、時尾は未だ言えずに居る。




時尾が仕度を整えて居間に入ると、斎藤は既に在るべき場所に座り、暮れ行く空を眺めていた。用意していた膳を置き、そっと杯を差し出す。が、斎藤はそれに気付かない。ぼんやりと何処かを彷徨っている様だ。どうぞ、と声をかけると、夫は何時に無く驚いたような素振りを見せた。

「ああ・・・。」

そう言って杯を受け取った斎藤がふと視線を落とす。目を留めた膳の上には酒の肴と共に一輪の花が添えてあった。釣鐘状のさほど大きくは無い花だが、その朱が目に焼け付くように存在している。

(ああ、これは確か・・・。)

それをしばらく凝視していた斎藤が、黙って部屋を後にしようとする時尾に声をかけた。
呼ばれて振り返った時尾は、少しして、なんです、と静かに答えた。

「・・・少し、座れ。」

一瞬躊躇したものの、言われたとおりに時尾は斎藤の横へ静かに腰を下ろす。
だが勺をする時ほど、近くはない。こちらに身を向けるわけでもない。微妙な距離を横目で眺めつつ、斎藤は問う。

「お前、今、何を考えている。」
「貴方は・・・誰を想っておいでです。」

時尾はゆっくりとそう答えた。そして忍ばせるようにそっと庭を見つめている。
そんな姿に驚いたのか、それとも予測をしていたのか、斎藤は喉の奥で少し笑った。

「・・・何故、誰かだと思う。」
「違いましたか。」

時尾の声は穏やかながらも確信に満ちている。長い付き合いだから致し方ないのだが、察しが良すぎるというものも、なかなか難儀なことだと斎藤は胸中で溜息をもらした。

「・・・ご明察。」

手酌で杯を満たし、その芳香を味わいつつちらりと眺めれば、時尾は変わらず庭へ視線を遣っている。日は完全に落ちてしまったが、それでもなお空を染め上げる朱が、世界を赤く照らしていた。

「で、誰だと思う。」
「さあ・・・私には見当も付きません。」
「お前はつくづく嘘が下手だな。」
「・・・そんなものが得意でも、お困りでしょう。」

それもそうだなと、柄にも無く神妙な声音で斎藤は杯を片手に独り言ちた。

・・・さあ、どうしたものか。
こういう時、妻はなかなかに面倒だ。
いっそのこと、この不義理者、浮気者と罵られるほうがまだ楽でいい。
だが、己の横に座る女は、泣いて縋って誰なのですかと問うたりはしまい。そうしたいと思っていても絶対に言の葉にしないのが、この女の好いところであり、また遣る瀬無い所なのだということを、誰より己が一番よく知っている。

仏頂面の下で、内心打つ手無くそんなことを考えている夫を見遣りもせず、薄暮の中の時尾が突然ぽつりと呟いた。

「・・・たそ、かれは・・・。」
「何だ、それは。」

予想外の言葉に斎藤がそう問うと、時尾は世間話をするように何気なく答える。

「夕暮れ時に遣ってくる御仁に、昔はそう問うたそうですよ。それが、黄昏という言葉になったと聞いたことがございます。」
「成程。」

斎藤は口角を軽く上げた。これが妻殿の精一杯、ということらしい。故事になぞらえて想いを仄めかすというところが、全く以ってこの女らしいと思う。無性にその身を掻き擁きたくなるのは、こんな時だ。尤も、今、それは許されはしないだろうが。

誰そ、彼は。
反復するようにそう呟いて斎藤は杯を干し、その空白を眺めた。
その白と対照的な膳の上の朱が、何かを己に語り掛けているような気がする。あれからもう、何年経っただろうか。そして、今、搾り出すようにして己に誰そ、と呟く女は、一体何度その言葉を飲み込んだことだろう。

頃合だ。そう思った。

「・・・女だ。」
「左様ですか。」
「名は、やそという。」

その名に、時尾がはっと息を飲むのが視線を遣らずとも見て取れた。
その時尾は、密かに奥歯をかみ締める。夫の口から発せられたそれは、心のどこかで予感していた人物の名であった。

「知っての通り、俺が娶った女だ。・・・妻であった時間は短かったがな。」

そう言って、斎藤は語り始めた。
名家生まれだったが、幼い頃から病弱でそれゆえ城で奥勤めも出来なかった女。
戦の後、流された先の斗南で斎藤はその女との結婚を持ちかけられた。
山口次郎が斎藤一であることは、いずれ何処からか知れてしまう。そうすれば、一戸伝八のことも、遅かれ早かれ露見する。それは、一戸を名乗って隠遁する斎藤にも、其れをかくまった会津にとっても望まぬ事態だった。

『やそ殿は、会津藩きっての名家の生まれ。その家の者と夫婦になっていれば、一戸伝八を名乗る貴殿があの斎藤一だとは誰も思うまい。それに、』

そこで、その話を持ち込んだ男は声を落とした。

『・・・やそ殿はこの斗南では長くはもつまい。貴殿も、ほとぼりが冷めるまでの仮初の夫婦だと思っておればいい。先方も、承知の上だ。』

どうでもよいことだ。一礼して席を立ったとき、斎藤はそう思った。
どうせ拾った命だ。例えて言えば賽をふるようなもの。この話が吉と出るか凶とでるかは誰にも解らない。それでも、己を気遣ってのことだということはその男の話しぶりから見て取れた。会津の藩士でないにもかかわらず、多くの人々の言い尽くせぬ尽力で生きることを許されている。その人々が望むなら、それでいい。それでいいはずだ。

送るという家主を結構ですと断り、その家の庭に面した廊下を独りそんな思いに暮れながら歩いていくと、庭の奥から一人の女が歩いてきた。風が吹けば消えてしまいそうな、そんな朧気な女だった。

女の、白い掌の中に溢れるほどの朱が満ちていた。
この厳しい北の地にも花が咲くのかと、目を奪われるようなその朱を見つめると、此の方に気が付いた女がぴたりと歩みを止める。そして、穏やかに言った。その外見の儚げさとは裏腹に、しっかりとした心地のよい声だった。

『鳳仙花です。』
『そういう花なのですか。』

それが、二人が初めて交わした言葉だった。
お互い、名乗りもしなかった。
名乗りもしないのに、その女は己の妻になること承知していて、己はその女を娶ることを解っていた。そして、その縁が決して長くは無いことも感じていた。

その言葉にならぬ全てまで肯定するように、女はこくりと頷く。

『それを、どうします。』
『爪を、染めるのです。』

そして、己をまっすぐ見て微笑んだ。

『私、お嫁様になるのですもの。』

あまり幸せそうに微笑むので、斎藤は思わず問うた。

『それでよいのですか。』
『存じております。全て父より聞きました。それで、ようございます。ただ、』

一つだけ、お願いがございます。そう女は言った。

『貴方が生きなければならない時間は、まだまだ長うございましょう。だから、私が逝った後、やそのことは、きっぱり忘れてくださいませ。』

白い掌の中で、紅い花弁が溢れるように風に蠢いている。温かいようで、焦がすように熱い艶やかなその朱は、目を閉じても忘れられそうに無かった。同時に花とは、そして女とはこのように美しく、心を乱すものであったかと、脈絡も無く感じていた。

命の限りを知る女。いつ白刃の下に果てるやも知れぬ己。共に理由は違えど、自身の死すら思い通りにならぬ船に乗り合わせている。
そういう組み合わせもあるのだろうと思った。そんな定めの中の二人だからこその巡り合わせかもしれない。そう思うと、こうして向かい合っている一瞬も、痩せ枯れた手の中の朱のように悲しいほど熱かった。

そしてそれは、永遠に値した。

『でも、私の中の貴方は、連れて逝きます。貴方とこれから過ごす時間の、半分。その、記憶。それだけは、許してくださいね。』




蜩が遠のき、見慣れた庭はゆっくりと宵を受け入れ始める。訪れた沈黙を破るように、斎藤は酒を嚥下した。

「やそは俺にそう言った。その後、形だけの祝言をして、夏の終わりに逝った。」

呆気無かった。斎藤は最後にそう付け加えた。

人はこれほど簡単に現世と絶たれてしまうのか。
人の死など、溢れるほどあった。見送った後に指先だけを赤く染めた驚くほど小さな掌を握った己の手は、その死を作り出す為だけにあったといっても過言ではなかった。だから、そんなものに、今更揺れるとも思わなかった。
だが、その女が逝ってなお、あの朱だけは尽きることも、猛ることも無く、ただひっそりと己の心の奥底で燃えている。それほどに、過ごした時間のそれぞれが眩しかった。

「二人で生きた記憶の半分・・・やその中の俺は、その時くれてやった。残りの半分は・・・。」

共に在った記憶のその半分。結んだ縁の、残された半身。
杯を置いた斎藤の指が、とんとんと軽く自身の胸を叩いた。

「此処にやそが居る。それは、今までもこれからもそうだ。だが、」

そして、静かに時尾を見つめた。訪れた宵闇に微かに残った残照が、その琥珀の瞳を濃く染めていた。

「お前にやそを見たりはしない。それも、変わらん。」

反応のない時尾から庭へと目をやる。今、妻の見る黄昏と、己の見るこの黄昏は交差しているのだろうか。先妻の記憶を未だ残し、それを止せばいいのに告げてしまったその後で、そうであればいいと思う自身の都合のよさに、斎藤は自嘲せずにはおれない。

「あれは、夏の終わりの夕暮れに逝った。きっぱり忘れろとの故人の意思だからな、もうあれこれ想い出すことは無いが、偲ぶのは俺の勝手だ。だから、夕焼けの見事な日に、俺なりの弔いをしているのさ。」

斎藤はそう言って、指先で膳の上の朱を摘んでくるくると回す。夏の終わりの蜩のように儚く逝った女の指を染めた紅が、じわりとその赤を深めた。

「あれとは共に生きて、そして逝くことはできなかったからな。せめて、俺の中のやそを抱えて生きねばならん。」

するとそれまで黙って聞いていた時尾が、呆然とした眼差しのまま呟いた。

「ずるいひと。」

そして、何かの箍がはずれたように、きゅうと眉間をよせ、固めていた視線を忙しなく彷徨わせる。

「・・・何を今更。」
「違います。」

そうきっぱり言って、時尾は初めて斎藤に身を向けた。そして座ったまま、膝で軽く隔てた距離を縮める。一体何をする気かと思っていると、向き合う時尾のその指がす、と伸びて、そっと斎藤の頬に触れた。そして微かに震えるその指が、斎藤の酒に濡れた唇を這った。

「この唇に、そんな切ないことを言わせるなんて・・・、」

指以上に震える声が、搾り出すように言葉を紡ぐ。併せるように、見上げて頭を振って言う。

「生きておいでであれば、悋気の起しがいもあるのでしょうけど。貴方の胸のなかでは、手の出しようもありません。」

溢れ出しそうな雫を湛えた深い瞳が、それでも懸命に微笑もうとしている。思わず、名を呼んだ。

「・・・時尾。」
「かないませんわ。やそさま。」

そう言って、さっと伸ばした指を引き寄せるように胸に抱え込むと、時尾は顔を伏せた。
改めて背筋を伸ばし、深く息を吸い込む。そしてその目を伏せて、ゆっくりと言う。
くやしい、と。二度、三度とそう呟いた。

何時もと変わらぬ凛とした佇まいの妻と、その向こうの宵の明星を同じ視界に捕らえながら、斎藤は妻の身から迸る静かな激情を感じている。そして、それは己に端を発しているはずなのに、その己には決して消してやることも埋めてやることもできない。求めるように唇に触れたその指もまた、逝ってしまった女のように、夕焼けの残火に朱く染められていたことを唐突に思った。

突然時尾が問うた。

「・・・どんな方だったのです。」
「やそか。そうだな、・・・。」

改めて問われてみると、思った以上に難しい。我ながら要領の得ないことだとは思うが、この際思いつくままに話してみることにした。

「自分は立ち上がれぬほどの病のくせに、布団の中から俺に説教をする。生きていくことは、それほど悪いものではありません、とか何とか。毎日が新しい世界の始まりだ、だから朝焼けは美しいのだ。嫌なことや苦しいことがあった時は、美しいものを御覧なさい、などとよく言っていた。その美しさを心の中に住まわせていれば、人を恨み蔑むことはありません、と。」
「・・・強い方でしたのね。」

斎藤は少し笑った。

「さあ、どうだろうな。本人にしか解らん痛みもあったろうさ。ただ、あの女は残された時間を知っていたから、余計な事は語らなかった。あれが思う、俺に覚えていてほしいことだけを何度も、な。」

何度も、何度も。言葉で染めていくように。

『貴方、この空はなんと美しいことでしょう。』

朱に染まった指を、届かぬ天蓋にゆらりと伸ばして。死を纏いながらも、その目に映る全ての生の歓喜を伝えようとしていた。生そのものに執着の薄くなった己を、なんとか生かそうとしていたのではないか、と今になって思いが至る。そこまでして生きることを託されてしまったのでは、迂闊に死ぬことも出来ない。

そして、今、勝手に死ねない理由は他にもあった。その存在に出会う為に、あの女は己の魂を生かしてくれたのかもしれない。後に遣って来る、新たな運命に己を送り届けるその為に。

(・・・だから、きっぱり忘れてくれと言ったのだ、あれは。)

考え込むように黙っている時尾の手を、突然斎藤が取った。
そして、驚いて手を引っ込める時尾を軽く引き寄せ、その耳元に低く問う。

「・・・お前は俺に、何を望む。」
「そのようなこと、・・・申せませんわ。」

ぴくり、と肩を竦めて言う時尾に再度問いかける。

「物は試しだ、言ってみろ。」
「貴方に嫌われたくはありませんもの。」
「・・・言え、時尾。」

ぐ、と手を握り締め、引き寄せた己を見下ろして問うその瞳の強さに時尾はくらりと酔う。
でも、言えばいったいどうなるだろう。

この人はきっと驚いてしまう。
私がどれだけ欲深く、嫉妬深い女か知って。
だから、言えない。叫びたいほどの思いはあっても、言えない。

だが、そうは思うものの、己の手を掴んで放さぬ夫は納得しまい。再度名を呼ぶ夫の、聊か知りすぎてしまった性格に溜息をつきつつ、時尾は観念してその肩を抱く琥珀の双月を見上げた。

「・・・では、貴方の中のやそさまに聞いていただきます。」
「俺の中のやそに、か。」
「ですから、これから時尾の申すこと、貴方は聞いてはなりませんよ。」

時尾は引き寄せられた手を斎藤の胸に添え、額をこつんとその上に当てた。そして、何かを吐き出すようにゆっくりと言葉を紡いだ。

「私の心を掻き回す、この殿方を独占したいのです。・・・胸の中のやそさまごと、私で満たして差し上げたいのです。」

一瞬間が空き、斎藤が軽い吐息と共に呟いた。

「それは・・・怖いな。」

途端に胸に伏せた顔から、不平が漏れる。

「貴方は聞いてはなりませぬと申し上げました。」
「・・・無茶な。」
「無茶は貴方の十八番でしょうに。それに、貴方に怖いものなどないでしょう。」

くす、と時尾の唇から小さな笑いがこぼれた。引き寄せた手を解き、もたれる細い肩を両手で軽く抱きながら斎藤が答えるように笑った。

「買いかぶりだな。怖いものが多いから、俺はまだ生きている。」

庭先から虫の音がこぼれてくる。秋が近い。二人はどちらともなく空を見上げた。

「特に、出来た妻殿がなにより怖いさ。」
「その手には乗りませんよ。」

心外だな、といつに無く小さな声でそう言った斎藤は、一瞬言い澱んだものの、半ば観念したように投げやりに呟いた。

「・・・そうだな、俺もやそに聞いてもらうとするか。」

何を言うつもりだろうと、おとなしく腕の中で言葉を待っていた時尾を抱きしめた腕が、その時驚くほど強くなった。そして、堕ちて来る様に、肩口に重みを感じる。夫が顔をうずめたのだと理解するまでに、聊か時間を要した。

「許されるなら、・・・妻を二度も見送るのは、流石に御免こうむりたい。」

肩口から漏れるその慟哭にも似た吐露に、抱き込んだ時尾の肩が軽く身じろいだ。そして、その手が斎藤の背中を優しく抱いた。それは、泣く子をあやすように、軽く背中を何度も撫でた。

忘れたいことも、忘れられないことも。言いたいことも、言えないことも。
全て抱えて生きてきた。お互い損な性分で、投げ遣ることも、無難にやり過ごすことも出来ずにいる。そのくせ、抱えた荷の重さを告白できるほど器用でもない、強がってばかりの二人だ。だから、身を寄せ合って、抱えた重荷の一端を解く一瞬があってもいい。

静かで穏やかな時間が流れる。そして、微かな溜息と共に、時尾が顔を上げた。そこには何時もの穏やかで優しい笑みが満ちていた。

「・・・ご心配なく。貴方が彼岸に向かわれるその瞬間まで、私、息が出来ぬほど独占して差し上げます。」
「ずるいな。聞いてはならんと言っただろうが。」

斎藤のその言葉を無視して、お任せくださいと答えた時尾は、名残も残さずするりと腕の中から抜け出て居間から出て行く。取り残された斎藤は、乾いてしまった杯を再度酒で満たした。

しばらくして時尾が戻ってきた。携えた盆には杯が二つ乗っている。
膳を挟んで座ると、時尾がやけに芝居がかった口調で言った。

「月も出てきたようですし、やそさまも、一献いかがでしょう。」
「あれは、酒など呑まんぞ。それに、月も出ていない。」

そう答える斎藤からぷい、と顔をそむけると時尾は澄ました顔で答えた。

「貴方には聞いておりません。それに、やそどのも会津の女子でしょう。きっとお好きなはずですわ。」

疑いも無く頷いて納得している妻を見ながら、斎藤は小首を傾げて見せた。

「・・・そうとも限らんと思うがな。」
「案外、お強いやもしれません。殿方に、女子の本性はわからぬものです。」
「まあ、お前がそういうなら、そうなんだろうなぁ。」
「・・・それはどういう意味でしょう。」

やけに思い当たる節がある、といった態でにやりと笑う斎藤に、一瞬、時尾がむっとする。その様を見つめる斎藤の唇が、珍しくも優しげにほころんだ。
膳の上に佇む爪紅の花に捧げるように満たされた杯が添えられ、先程よりずいぶんと近くに寄り添った二人が、互いに杯を掲げあう。

「やそさまに。」
「妻殿に。」

やっと二人に訪れた微笑に合わせて、ふわりと微かな風が立つ。
そして誰かが何処かで笑ったように、名残の風鈴が、ちりん、と鳴った。




その夜から、それは新たな儀式となった。
日を決めているわけではないが、夫も妻もその日がいつかは知っている。燃えるように美しい夕焼けに、はっと息をのむような夏の終わりの日。
そしてその夜は、夫も妻も、互いの抱えた思いの一端を少しだけ告白する。そしてそれを黄昏時に遣って来る彼の女に聞いてもらうのだ。

杯はいつも三つ。その女の好きだった花を添えて。
心を染めるように爪に咲いた朱は、こうしてまた、今を紡ぐ二人の記憶を紅く紅く染めている。






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