彷徨

やれ来客だ、休憩だ、なんだかんだと理由をつけて、給仕は日本の頂点に立つ男の執務室に、今日も奇妙な茶を運んでくる。壁に背を預けて、斎藤はそんな様を興味無く見ていた。

嗅ぎなれた日本の茶に比べ、紅の茶、と書かれるらしいそれは、葉の種類や産地によって色も香りも違う。それにあわせるように、添えられる菓子も変わるし、作法もそれなりに異なるらしい。
政治の中枢を担う、というだけで十分に煩わしい事だらけだろうに、茶すら好きなように飲めんとは。政治家というのは厄介なことだ、と斎藤は思う。しかし、この部屋の主は、そんなこと程度で我を崩すことはないようだ。運ばれてくる品々に合わせ、腹立たしいほど洗練した動作で茶を味わっている。

「藤田君。」

内務卿を務めるその男は、斎藤をそう呼ぶ。明治に入って手に入れたその名は、呼ぶ本人にも呼ばれる本人にも何ら意味を成さないもののようであったが、形式とは時に其れまでの複雑に絡み合った過去のしがらみに蓋をして折り合っていくにはそれなりに効果があるらしい。 新しい名にも、新しい環境にも、周りが想像するほど抵抗を感じない。その現実を生きる斎藤本人にとっては巡る季節に合わせて変える着物のように些細なこと。
人は何にでも慣れていくものだ。

「君が此処に来て、もう随分になる。」
「・・・まだ三月も経ちませんが。」
「茶でも、どうだね。」

大久保という男は、良くも悪くも人の話を聞かない男のようだということは、斎藤は身辺の警護に付くようになって程なく察した。こういった手合には、いちいち反応するより従った方が不要な会話が少なくて済むということも、過去の経験から知っている。否、と言っても、どうせ聞いてはいまい。ソードラックから刀を外し、示された革張りの瀟洒なソファに腰掛けた。

給仕が用意した紙のように薄い紅茶茶碗に、柔らかい紅色の液体が注がれると、茶独特の香りとともに春の花のような芳香が見え隠れする。
二人は向かい合って、しばし無言で茶を飲んだ。香りを味わい、目で楽しみ、そしてそれらを舌に乗せる。程なくして二人の茶碗は空になった。

手ずから再度紅の香を満たしつつ、大久保が問う。

「気に入ったかね。」
「どうでしょうな。自分には解かりません。」

外国の茶など良いか悪いか判別がつくほど飲みつけていないのだから、解かるわけがない。斎藤は思ったままに答えた。忌憚がない、というより些か無遠慮な回答に、そう言った斎藤の意外な実直さが見て取れ、大久保は目を細めた。

「私はね、最近になって紅茶を嗜むようになってね。産地や茶葉の香りなども色々と学んだ。この紅茶は今の時期にしか飲めないものでね。値もそれなりに張る。だがね、」

軽く音をさせて茶碗を皿に戻した大久保は言った。

「郷里の藩校で飲んだ茶の方が、よっぽど美味かった。」

そして、指先で茶碗の淵をするりと撫で、薄紅の液体を眺めた。その先に、男は遠い過去を見ていた。

「いつも、微妙に生温い出涸らしの茶でね。湯飲みすらなかった。しかし、そんなことを気にする輩も居なかったから、急須から直接流し込むんだ。」

こうやってね、と大久保は片腕を上げ、若干喉を逸らすようにして口を開けた。

「いつも、誰かが茶請けになるものを台所やどこかからくすねて来る。車座になって、他愛のない話をしながら、大いに笑ったものだよ。」

開け放した窓から夏の風がざあ、と舞い込む。執務机の上にうず高く積み上げられた書類が、ペーパーウエイトの下で身動ぎをした。かさかさと音を成すそれは、まるで地の底を舞う風に嗤う枯れた骸のようだ。大久保の肩越しに、斎藤はその白の蠢動を熱無く眺めていた。

「日本に夜明けが来た。我々の理想が成った。しかしね、」

私は、友と茶を飲むことが出来なくなったよ。
そう言って、視線を茶に落としたまま大久保は小さく笑った。

「当時は、新時代が来たらこんな不味い茶は飲まない、なんて言ったものだがね。今となってはそれも・・・。」

その時、それまで大久保の上に無かった斎藤の琥珀の双瞳が焦点を結び、ゆっくりと低い声を紡いだ。

「生きているからこその、不味い茶でしょう。」

不気味と言ってもおかしくない程静かなその声に、思わず視線を上げる。それは、目の前の藤田五郎なる人物の声では無かった。その日、大久保は初めて、斎藤一という男の声を聞いた。
生きているからこそ、という言葉に眼前に座る男の矜持が見える。戦に負けた側の、そして今も狗と蔑まれる卑職にあるその男の、それは勝者への静かな抵抗だ。
だが、それだけではない。同時に、立場の差は在れ、生き残ってしまった者の孤独へのささやかな同情であるようにも思える。この男も、多くを失って此処に在る。そういった意味では、己等はさして変わらない。無性に目の前の男が、自分の分身のようで遣る瀬無かった。それは郷愁であり感傷だったのかもしれない。だから、柄にも無いことを唇が紡いだ。

「君は、私が思っていた以上に・・・なんというかな、その・・・。」

そこまで聞いたところで、斎藤は黙って立ち上がった。色素の薄い双眸で、一瞬冷ややかに大久保を見下ろすと、そのまま何もなかったかのように元居た場所へ戻り、その背を壁に預けて瞑目した。
其れは、先に続くであろう言葉への拒絶であり、同時に発した男への戒めであった。
男は、其れを言うことを許されない。それが、この国に新時代をもたらした代償で、それが勝者である男の義務なのだ。

孤独であることも、生きているからこそ。
世を変える、その為に築いた屍への償いは、まさにその一点に尽きるのだ。

「・・・やはり君は、手強いな。」

その呟きには誰も答えなかった。発された言葉は、存在しなかったかのように風に溶ける。
白い陶器の中の茶が、大久保の視界の中で一際鮮やかにその紅を深めた。

広い執務室には、生き残ってしまった二人が、まるで荒野を彷徨う様に終焉の形を平行上で模索している。そして時折、地の果てに互いの存在を確認する。その存在そのものが、生の全てを捧げているか、と誰よりも激しく辛辣に己を牽制する。
それは、今此処に在る者達の絶対的な責務であり、そして罪の確認であり、時になお、生きる理由でもある。

今日も肩越しに、変わらぬ死者と生者を垣間見る。
その二人を隔てる近くて遠い空間に、ざわりざわりと風が舞う。






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