師父と撫子

今は、慶応の終わりなのだろうか。それとも明治の初めなのだろうか。

おそらく後者になるのだろう。
世の激動とは裏腹に、空は抜けるように青い。天高く馬肥ゆる秋、そんな表現が相応しい秋晴れの下、斎藤は独り陣屋の軒先で煙草をふかしていた。時折、思い出したかのように銃声が遠くで響くが、もはや気にもならない。小競り合いで戦況の優劣が決まるような、そんな切羽詰った空気は何処にも無かった。
歩む道の先が明らかになればなるほど、人は心の底が妙に落ち着いていくものらしい。勝ち目のない戦いの前に、陣営は奇妙なほど静かだった。

「もらえるかね。」

突然かかった声に目線をやると、見慣れてしまった顔がある。
不惑を迎えたばかりという年頃のその男は、差し出された煙草入れを受け取ると、断りも無く斎藤の横へどかりと腰を下ろした。そして慣れた手つきで火をつけながら、咎めるように言う。

「馬鹿者が、煙草は傷に悪いと何度言えば解る。」
「健康に留意せねばならぬ立場ではないのでね。」

いかにも学者といった穏やかな面をした男は、その風貌には見合わぬ辛辣な物言いをする。そういえば、初めて会った時などは、いきなり怒鳴られたのだ。この大馬鹿者が、親にもらった身体に傷をつけて、と。
戦場で後生大事に、親に貰った身体、などという訓戒を抱えているものは居ない。居ないが、人としては至極当然のその言葉に、改めて戦争というものが非日常であるのだということに気が付いたのだった。それほど、斎藤の人生においての戦とは、日常であった。
そして、その不肖の大馬鹿者は、その後もせっせと傷をこさえて日参し、その学者を呆れさせていた。
しかし、馬鹿に付ける薬はない、と怒りながらも精一杯の処置をする男を、斎藤は嫌いではなかった。この男は、きっと良い父親なのだろう。意識の片隅で、そう思っていた。

「君の健康の為に、これは私が預かるよ。」

受け取った煙草入れを、男はそのまま懐にしまった。それを横目で眺めながら、斎藤は冷たく言う。

「・・・先生がお好きなだけでしょう。」
「否定はせんよ。生憎、切らしていてね。」

あっけらかんと認めて、男はぷかりと白い煙を吐き出した。陣営の何処かで、男達の蛮声が上がっている。それは次の合戦への雄叫びか。それとも、過ぎ行く時代への慟哭なのか。
何れにせよ、破滅への序曲であるらしかった。

「物好きなことですな、高荷先生も。」
「君ほどではないさ。」

一瞬の沈黙の後、二人は顔を見合わせて、互いに鼻で笑った。

負け戦だった。それは、誰の目にも明らかなことだった。
だから斎藤は会津に残った。共に歩んできた同志とも、袂を分かってこの地へ残った。負け戦だからこそ、消え行く会津を選んだ。
ただ、この医者も残るとは思わなかった。負けると解って残る者達は、生きて戻ることを想定していない死に狂いで、当然、戻る人間がいなければ、医師など不要だ。にもかかわらず、この男は何故だか未だに此処に居る。最後の砦の城内とはいえ、それは些か常軌を逸した行動のように思われた。

己は何の因果か武士に生まれ、武士ゆえに此処から去るわけには行かない。
向学の為に脱藩までやらかした男が、何故武士の我の張り合いに付き合って死地に留まるのか。人にはそれぞれ言い尽くせぬ根拠があるのだろうが、その心境は、正直斎藤には測りかねた。が、逆に自分の選択が世間で言う所の理に適っているかと問われれば、それもまた疑問であった。まあ、人とは所詮そのような説明のつかないものなのだろうと、妙な所で納得していた。

「我々は、戦場に居るのだねえ。」
「・・・そのようで。」

突然落とされた危機感の欠片も無い、あまりに平和然とした高荷の言葉に、斎藤は是としか答えようが無い。
高荷はのんびり煙草を燻らせつつ続ける。

「嘘のようだよ。こんなにいい日和なのに。私なら、殺し合いよりも、縁側で碁でも一局やりたいね。猫でも抱いて。」

確かに、殺し合いをするには相応しくない空模様だ。かと言って、この医師のように、他にすることが思い浮かばない己は、つくづく救えない星の元に生まれたらしいと斎藤は自嘲気味に唇を歪めた。

「今や医学は和にあらず。西洋の医学に魅せられた私は、脱藩まで企てた。その私を許して頼りにしてくださる公を、会津を、私は放っておけぬのだ。」

尋ねもしないのに、損な性分でね、と途方にくれたように言う男を目の端に捕らえつつ、斎藤は白い煙を青空へ放つ。風に舞うように空へ登るその様を見るにつけ、人間とは窮屈なものだと思う。そして、そう思うのは、きっと己だけではあるまい。
同じように青い空に目を遣りながら、高荷は額にはらりと落ちた白髪混じりの髪を、掻き上げるように撫でた。

「看る、という字をご存知かな。手と目を共に書いて看ると読む。手で触れ、目で眺めるのは苦痛を和らげる為でも取り除く為でもない。患者の痛みを感じ、その苦痛に思いを馳せる為だ。」

高荷はそう言いつつ、人差し指をゆっくりと空に走らせた。

「此処には、私が望んだ西洋の医学はもとより、旧態依然とした和の医学を実践するだけの材料すらない。それでも、医者は傷つき病むものを癒さねばならぬ。薬無しで、それを成せるのは、」

看る、空に書いたその指をじっと眺めつつ医者はかみ締めるように言った。

「患者の手を握ってやることだよ。その者に、寄り添ってやることだ。」

斎藤は、黙って聞いている。
その視線の先を、小鳥が二羽、絡むように飛んでいく。そしてそれらも、空の何処かへ消えていった。そこには正しい世界の営みがあった。間違っているのは、その空の下を這い回る、人という愚鈍な生物だけのように思えた。

高荷の指は、人に届かぬ高みを求めるようにまだ空に在る。

「洋の東西を問わず、医とはそのようなものだと、此処に至ってやっと解った。それだけでも、私は・・・私達は帰参した甲斐があったと思っている。」

そして伸ばした指をぐ、と握り締め、膝の上へ静かに拳を落とした。

「我が家には十二歳になる娘がいる。私にそっくりの頑固者で、その上はねっかえりでね。私を越える医者になるそうだ。その子に、私が此処で学んだことを、いつか話してやれるだろうか・・・。」

空の高みを知ろうと羽ばたく若鳥のように希望と夢に溢れた未来を疑わぬ我が子を、高荷は懐かしく思い出していた。
残る決断に後悔は無かった。しかし、終幕が近づくにつれ、未練だけが強くなる。医者である以前に人の親である自分は、果たしてあの子のいい父親であっただろうか。もう一度、この手に抱ける日がくるのだろうか、と。

隣で黙っている男を盗み見る。京洛の鬼といわれたその男にも、己のように安否に心を馳せる存在が在るに違いないのだ。
しかし、それは教えるものでも、ましてや教えられるものでもなかった。言葉にならぬその思いを、高荷はただ独り噛み締めた。

「・・・先生は、健康に留意された方が良さそうだ。」

突然、斎藤の横顔がそう呟いた。そして、色素の薄い独特な色の瞳が、静かに高荷を見る。その瞳に答えるように、高荷は弾かれたように斎藤に向き合った。

「君も、生きていたまえ。」

思っても見なかった言葉を紡いだ自分の唇に、高荷自身が驚いていた。

この青年には戻る所も行く所もない。生きて残っても晒し者になるだけだ。そんな道理は、十分に解っていた。それでも、高荷は溢れる言葉を止められなかった。
死んではいけない。死は、何一つ生みはしない。死んでいい人間など、居ないのだ。

「生きていたまえ。生きる理由など、後からいくらでもついてくるものだよ。それに、この空の下には、君に出会う為に生きている人間が必ずいる。」
「・・・俺を殺る為に生きている連中には、心当たりがありますね。」

堰を切ったように、些か滑稽なほど真剣に語る高荷に、軽く目を見開きながら斎藤が呟いた。そしてそれを、高荷は頭を振って否定する。

「そうじゃない。解かっているんだろう。」

その時、本陣の方から刻限を告げる太鼓が鳴った。それに引かれるように斎藤は立ち上がる。その瞳は既に高荷を見てはいなかった。そこには今までの静寂とはまた違った色が在った。

「行きます。」
「山・・・斎藤君。」

斎藤の口角が、つくづく呆れたように小さな弧を描いた。
その名は捨てたと何度言っても、高荷は斎藤をそう呼んだ。どうせ短い付き合いだと、斎藤はそれを正すことをもう諦めていた。会津に残ると決めた時に、冠せられた名など既にどうでもよいことの一つになっていた。

「生きてくれ。どんな名前でも、どんな形でもいいから。生きていてくれ。私は・・・、医者は、誰かを死にに行かせる為に在るのではない。」

立ち上がった斎藤を見上げて、追いかけるように高荷はそう言った。
戦いに行く人間に生きて戻れなど、此処が京なら切腹ものだなと、斎藤は腹の中でそう思った。しかし踏みしめる大地は既に京でなく、苦楽を共にした仲間も無く、在るのは己のみだった。その現実は、改めて斎藤の脳裏を激しく揺さぶった。
思えば、江戸を出たときも、独りだった。独りが独りに戻っただけだ。そして、おそらく終わりも独り、だ。山口一も、斎藤一も、山口次郎さえもう存在しないように思えた。
此処に居る、この足で立つ己は、もはや誰でもなかった。

思考の刹那の混乱の後、誰でもないのだ、と思い至った途端、少し身が軽くなったように思えた。それは空の青さのように心のどこかを突き抜ける。
久々に、いい気分だった。故に、無愛想なこの男には珍しくも高荷の言葉に答えた。

「・・・善処しましょう、と言いたい所ですが、こればかりは俺の都合ではどうにもならないのでね。先生こそ、ご無事で。」

無駄とわかって最後に付け加えた言葉は、聞く側にも取って付けたような印象を与えたらしい。苦笑いしながら、高荷はとんとんと、人差し指でこめかみを叩いた。

何が伝わったかなど、解らない。せめて、笑顔で送り出してやろうと思う。

「医者は此処が肝心でね。それ以外は、いつ失っても構わんと思っている。生き残ってみせるさ、どんな形でも。」

不器用な笑みを浮かべる医師を一瞥し、では、と軽く目礼して歩き始めた斎藤が、ふとその歩みを止め、振り返る。

「煙草は身体に毒ですよ、高荷先生。」
「君に言われたくないね。」
「先生には、健康でいていただかないと。おちおち怪我も出来ません。」

その時、高荷がゆっくり顔を上げ、斎藤の琥珀の瞳を見つめた。その双眸は、まるで悪戯をする前の子供のように、不遜な色を湛えていた。少なくとも、死を渇望する色ではないと悟った。

どうやら、己の焦燥は杞憂のようだ。この親不孝者は思った以上に強かで、また己の手を煩わすつもりで行くらしい。
そう気付いた途端に、胸が閊えた。

万感を表せぬまま流れた時間を絶つように、高荷は軽く頷いた。

「・・・善処するよ。気を付けて、行ってきたまえ。」

搾り出すように紡がれた言葉を聞きつつ、それ、と斎藤は高荷の懐を指差す。

「後で取りに伺おう。近頃は、仕事の後の一服だけが、唯一の楽しみでしてね。」
「色気の無いことだ。」
「全く。戦など、するものではありませんな。」

斎藤の言葉に、高荷隆生は大きく破顔した。
それは、斎藤がその戦場で最後に見た、誰かの屈託無い笑顔だった。






今、目の前で己を不良警官と罵る女に、過日の男の面影が重なる。

これが、似ても似つかない。優しげな風貌ではあるものの造作そのものは煎餅のような遠い記憶の中の男と、細面で黒目がちな瞳の端に開花前の瑞々しい艶を滲ませる女とに、類似点などあるはずも無い。にも拘らず、なお何処かに面影が宿ると思うのは、きっとその動作の所為なのだろう。

怒鳴る時にきりりと寄せる眉とか、言葉を発する前に軽く唇を舐める癖とか・・・。

(思えば、親子二代に渡って、俺を怒鳴っているわけか。)

因果なことだなと思いつつ煙草を咥えたとき、

「もらえる?」

溜息とともに、高荷恵はそう言った。 ちらりと見遣れば、さも当然といった様子で手を差し出している。
助けてやった人間に散々文句を言っておいて、打って変わった言い様に、軽く片方の眉を上げて答える。その意味を正しく判じたらしいその女は、若干バツが悪そうに小さく笑った。

「流石にあたしも堪えたわ。まさかあの男が此処にくるなんて、ね・・・。」

成程、因縁深かりしということか。そうであるなら、先程までの立ち上がれぬ程の動揺とは比べ物にならない落ち着きぶりも、理解できるというものだ。

遠い日の幼子にも、十年は平等に訪れたらしい。悟られぬほどの小さな苦笑とともに、箱ごと軽く放って寄越す。初夏の神谷道場は、先程までの張り詰めた空気が嘘のように明るく平和な日差しに満たされていた。

「呉れてやる。」
「あら、気前のいいこと。ついでに燐寸もお願いできる?」

間髪いれず、燐寸箱が弧を描いて高荷の掌に届いた。
慣れた手つきで燐寸を擦り、火を点すと、ふう、と軽い吐息と共に、白い煙が真っ赤な唇の隙間から流れ出た。

「医者が煙草なんて不味いんじゃないか、なんて言わないでね。」
「言わん。」
「そうね、人選を誤ったわ。」

あっけらかんとそう言って、恵は笑う。
その様もまた、斎藤の記憶の奥底を刺激した。遠慮の無さも遺伝するのかと感心していると、途端にあの男が、君にだけは言われたくないねと反論する様が目に浮かぶ。

「・・・こういった事がまた起こらんとも限らん。当分、此処には来ぬことだな。」
「寝ぼけたこと言わないで。惚れた男の頼みを無碍にしちゃ、女が廃るわ。」

惚れた男、ねえ。一端の口を、たたくじゃないか。
無茶でも、頼られたら否と言えない性分も、頑固な親父譲りということらしい。
深く吸い込んだ紫煙が、胸と思考を苦く染めた。

『その上はねっかえりでね。』
『私を越える医者になるそうだよ。』

あんたの御転婆娘は医者になった。あんたを越える、医者になるかはわからんがね。
口が減らないのも、肝の据わりっぷりも、煙草の吸い方までそっくりだ。
ただ、顔は全く似てないな。その辺は、正直先生も一安心、だろう。奥方に感謝だな。

そんなことに思いを馳せる斎藤の口角にじわりと微かに浮かんだ笑みを、今度は高荷も見逃さなかった。険を含んだ口調で斎藤を睨む。

「何が可笑しいのよ。」
「・・・別に。では後で、警官を二人ほど寄越してやろう。」
「要らないわ。それに相手は元御庭番衆の御頭かもしれないのよ。警官二人なんて、無くても同じ。」
「それでも、死体の処理くらいはできるだろうさ。」

心配などという温かい感情とは無縁の殺伐とした回答に、高荷は一瞬鼻白むが、ふん、と鼻で笑って切り返した。己の頬に手を添えたあの男への胸中のおぞましい恐怖と、否定できない小さな期待の芽生えを他人に悟られたくは無かった。

「・・・そうね、じゃ折角だし、そうしてもらえるかしら。私も心置きなく此処に居れるわ。」
「ま、あの男が此処に戻ってくるとは思わんが。精々、」

その時、不意に視界を鳥が横切った。
そしてそれは、たった一羽で空の高みへ消えていく。その様は斎藤の記憶の深淵から、ある言葉を蘇らせた。

『どんな形でも、生きていてくれ。』

搾り出すように、乞い願うように紡がれたその言葉。
あれは、己だけに向けられたものでは無かった。
あの医師は、己の目の前に立つこの女にこそ、そう言いたかったのだ。

だがそれは今、己に発せられる言葉ではなかった。己には相応しくない役目だろうし、第一、そんな義理もなかった。託した側の人選に問題があったのだと思いたい。

精々、これが精一杯だ。

「・・・気をつけることだな。」

斎藤はそう呟いて、溜息混じりに吸いかけの煙草を踏み潰す。長居は無用だ。過去の記憶への旅よりも、目前の危難を乗り越える必要に誰もが迫られているのだ。
目の前に立つ、もう一人の危険人物の意外な言葉に、恵は再度目を瞬く。

「・・・案外、無駄口の多い男ね、あんた。」

それを聞いた斎藤が、今度こそ面白くて仕方が無いといった態で奇妙に唇を歪めた。

「お前もな。それに意固地なところは、瓜二つ、だ。」
「誰に、よ?」

お前には関係ない、と言おうとして止めた。それは、単純に事実に反した。あの男に相応しい言葉を模索する。

「・・・お節介の、藪医者だ。」

ああ、それも事実に反するか。腕だけは、確かだったからな。
斎藤は、あの秋の日に見た深い笑顔を思った。

視界の端に、あの男が愛でた勝気な撫子が怪訝な顔をして立っている。どういうことよ、と食って掛かるが、己に答えてやれることは、何一つない。

身を翻して去っていく斎藤の背中に、何なのよ、と恵は小さく呟く。
その問いは答える者のないまま、初夏の空の青に飲まれた。






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