師父と撫子/邂逅

「禁!煙!!」

そう怒鳴って高荷恵は、自分の目線より少し上で煙を立てている細い煙草に手を伸ばす。
伸ばされたほうは、はいそうですかと殊勝に喫煙を諦めるわけもなく、軽く顎を上げて、その手を躱し、

「たった二人の怪我人の処で、わざわざ禁煙する必要もなかろう。」

いけしゃあしゃあと言ってのけた。その上、見せ付けるようにゆっくりと紫煙を吐き出す。それがまた、高荷の勘に触る。憎憎しいとは、この男の為にあるような言葉だ。

「病院なの、ココは!」

頼むわよ、と釘を刺してやり場のない怒りと共に診療室へと踵を返す。市街戦の末、文字通り満身創痍で運び込まれた弥彦と、飲まず喰わずで体力を著しく消耗している緋村の処置は一通り終わったものの、生きているのが不思議といった状態だ。まだまだ気が抜けない。
東京に来て以来、様々な病や怪我を見ているが、やはり神谷道場絡みの怪我は常人のそれを越えている。治療も経過観察も人一倍気を使う。間の悪いことに玄斎医師も不在だ。故に高荷の気は立っている。その神経を逆なでする紫煙につくづく嫌気が差して、高荷は軽く頭を振った。

と、その時だ。
煙草の香りに紛れる様に存在する、嗅ぎなれた匂いに気が付いた。

「…あんた…。」

振り返って、じ、っと見上げる。見上げた先の琥珀の双瞳はいつものように、何一つ語らない。何も語らない二人の視線が、しばしかち合い、息が詰まるような沈黙が流れる。

そんな二人の様子を、居合わせた操は興味深そうに遠くから眺めた。

(これって、なかなか無い図よね。)

一体何が起こるのか。興味が無いといえば嘘になる。
しかし、そんな操の期待とは裏腹に、かみ合わない二人の奇妙な静寂と静止は意外にも直ぐに終わった。
高荷が叫ぶように言う。

「ちょっと来なさい!」
「院内は禁煙、じゃなかったのか?」
「いいから!!グズグズ言うと、ここで脱がすわよ!」

高荷の言葉に、ぶ、と操が噴出す。この男ほど、グズグズなどという可愛い言葉が似合わない男は居ないだろう。同時に、そんな言葉を投げられた不良警官がどう反応するかも興味がある。
見遣った先の斎藤は変わらず動かない。我関せず、まるで他人事のように聞き流して、ゆっくり煙草をふかしている。
一時のにらみ合いの末、痺れを切らしたように高荷が斎藤の腕を掴んで無理やり診察室の方へ引っ張っていく。斎藤は軽く眉間に皴を寄せたものの意外にも抵抗せず、咥えた煙草もそのままに、なすがままになっている。そして二人は診察室へ消えた。

「・・・これ・・・は?」

どんな展開に成ろうとも、間違いなく一悶着あると期待していただけに、予想外の展開だ。一体何が起こったのだろう。そう思って操は尋ねるように、廊下の壁に背を預けて気配もさせずに立っている長身の男に目を向けた。男は瞑目したまま、何も言わなかった。





診察室に斎藤を押し込んで、高荷は後ろ手で扉を閉めた。黙ってついてきた斎藤を椅子へ座らせ、自らもその正面へ椅子を引っ張ってくる。そしてこめかみを揉むようにしながら、低い声で言った。

「あんた…血の匂いがするのよ。」
「そういう仕事だ。」
「馬鹿にしちゃ困るわ。これでも医者ですからね。」

ぎり、とその琥珀を睨む。大抵の患者なら二の句も告げずに平伏す視線だが、この男には効果は無いらしい。相手が悪いのだと諦めるように溜息をついて、高荷はできるだけ静かな声で言った。

「見せてみなさい。・・・悪いようにはしないから。」

一瞬の逡巡はあったものの結局は観念したのか、斎藤はすっと立ち上がり、部屋に備え付けてある流しで煙草を消すと、きゅ、と軽い音を立てて手袋を取った。ソードラックをつけているベルトを外し、日本刀を床へ置く。そして、制服の上着を脱ぎ席に着く。
真っ白な洋シャツの釦を長い指が一つずつ外していくのを横目で確認しながら、高荷は外傷用の治療器具を用意して、斎藤の正面に座った。
引き抜かれた洋シャツの下から現れた傷口に、息を飲む。取ったサラシの下の布はどす黒く血を吸い、鉄臭い血臭が鼻についた。そしてその傷口は大雑把に縫合されていた。

「…どうしたの、コレ…」
「思った以上に深かった。無理に動くとまだ出血する。」
「で、あんたまさか自分で縫合したの…」

ふん、と斎藤は鼻で軽く笑った。

「よくあることだ。この程度の怪我でいちいち医者に掛かるのも面倒だしな。」
「でもアンタ、いきなり縫合って・・・。」

斎藤は、心底呆れたと目を見開いてそう言う高荷の目線をかわした。
そして、視線を泳がした後、服を汚したくない、と何気なく呟いた。

その、想像だにしなかった言葉に高荷は怪訝な顔をする。
目の前に座る男は、戦いとなれば、服がどうの家屋がどうのとそういった細かいことを気にする人間では無さそうに思う。現に、この男が現れるたびに、神谷道場は半壊の憂き目に会っている。
だから服を汚したくない、という真意が分からなかった。分からぬままに目を転じると、其処には真っ白な洋シャツがあった。

濃紺の制服の下の、輝くほどに白い洋シャツ。はっとした。

この男にとって服が汚れること、それそのものがどうというわけではないのだ。
が、制服の白いシャツでは、血が目立つ。隠しようもない。その白を血で汚すと、心配する人間がいるということなのかもしれない。
きっとそうなのだと、高荷は思った。そう思えば、この男の妙に肝の据わった行動の理由が解る気がした。

おそらくその誰かの為に、この男は呆れる無茶をしている。
高荷はそれがとても意外で、また同時に何故か可笑しくて仕様が無かった。
頬が緩む、とはこういった瞬間に訪れるのだろうか。

「・・・アレ級の馬鹿にはそうそう会わないだろうと思ってたけど、アンタなかなかいい勝負よ。」

アレ、と呼ばれた男に思い当たったのか、それともその男と比較されたことが気に障ったのか。斎藤は一瞬、心外だ、というような微妙な顔をした。それもとても予想外の反応で、高荷は今度こそ小さく笑う。

(・・・何だ、割と普通の男じゃないの。)

傷口から抜糸し、消毒。治りかけてはいるようだが、本人の言うように無理をすればまた出血するだろう。そして、この男は間違いなくその無理を押し通す。
薬を塗りこんで布を当て、上から強めにサラシを巻いた。処置をしながら言う。

「どうせするなといっても聞かないだろうと思うけど、でも、万一熱がでたら必ず診てもらうのよ。化膿したら危険だから。」

斎藤は何も答えなかった。返事がないということは、この男には諾ということかもしれない。高荷はふとそう思った。そして、おそらくその予想は正しい。

「ちょうどいい機会だったわ。あんたとは少し話がしたいと思ってたし。」

全ての処置を終え、手を洗って再度席に着くと、斎藤はもう既にその白いままの洋シャツを身に着けて、制服の上着を手に取ったところだった。
まあ、座んなさいよと声をかける。少しの沈黙の後、高荷は言った。

「有難う。」
「・・・意味が解からん。」

斎藤は、感情の無い声でそう呟いた。高荷は組んだ掌に視線を落とす。何から話すべきだろうか、と思う。が、きっとこの男に無駄な前置きなどは必要ない。
自らの指先をもて遊びながら、とつとつと思いつくままに話した。

「藤田五郎なんて警官のことは、あたしの知ったことじゃない。斎藤一のことも、あたしはよく知らない。でも、」

山口次郎のことは、知ってるわ。
苦楽を共にした仲間と袂を分かってまで、会津に殉じた人だもの。
だから。

再度静寂が流れた。そして斎藤が呟いた。

「そんな男のことは知らん。」
「そうね。藤田警部補なら、そう言うでしょうね。」

そう言わなきゃ、まずいわね。
高荷は軽く笑って、視線を上げた。この男と言葉を交わしたことは数えるほどしかないのに、何故だか途方もなく昔からこの男の事を知っていたような気がするから不思議だ。それは、離れた故郷を思わせる、優しく、ほろ苦い感情だった。

「山口次郎って人はあの戦で亡くなったらしいし・・・。でも、あんたにも浅からぬ縁のある人のようだから、代わりに聞いて頂戴。」

有難う。

再度、高荷はそう言った。自分にこんな声が出せるのかと驚くほど、ゆっくりとした柔らかい声だった。そしてそのまま窓の外の青い空に目をやった。染み入るような色が其処にはあった。記憶の中の母の声は、今の自分の声に似ていた。そんなことを考えていた。

斎藤は何も言わない。
それがこの男なりの流儀で、そんな答え方もあるのだろうと、初秋の空を飛ぶ鳥の群れを眺めながら高荷は思った。少し悲しい気もするが、己とこの男の間では、そうであるべきなのだろう。しばらくの間、二人は黙って向き合っていた。

斎藤が音も無く立ち上がり、上着と刀を身に着ける。
そして窓の外を見つめたままの恵を残して診察室の扉に手をかけた時、軽く溜息をついた。それはこの男には珍しく、躊躇と言ってもおかしくない、奇妙な動作だった。

「・・・煙草の好きな男だった。」

背を向けたまま、斎藤が低い声を紡いだ。

「馬鹿に付ける薬は無い、と散々人を罵った後でも、澄まして他人の煙草を吸えるような奴だった。」

その声は、過去からの便りのように震える心の底へ静かに舞い降りる。

「十二に成る娘が、医者になりたいとせがんで堪らぬと、こちらが尋ねもしないのに惚気るので、辟易した。」

高荷恵は黙ったままだった。込み上げる衝動を何とか身の内に留めようと、奥歯をかみ締めていた。そして、小さく頷いた。
空を見上げたままの横顔に一筋の軌跡が刻まれたのは、遠ざかる足音が診察室に届かなくなってからだった。





「アイツ、大丈夫なの?」

しばらくして高荷が診察室から出ると、真っ先に操がそう問うた。
おそらく、斎藤は何も言わずに此処から去ったに違いない。あの男は余計な事は話さないから。

・・・肝心なことも、なかなか言わないけれど。

そんなことを考えながら、にっこり笑って答える。

「あれは殺しても死なないクチよ。不死身なんじゃないかしら。」
「そ・・・か。そうだよね!!」

心配して損しちゃった、と大きく伸びをして笑う娘を見ると、心が少し穏やかになる気がする。この娘の様に、正直に想いを口にだせれば、自分の人生も少し違ったかもしれない。そう思うと羨ましい気もする。神谷道場の師範代といい、この少女といい、己にはひたすら眩しい。だから放っておけないのだろうか。

そういう意味では、あたしもアイツもそう変わらない、か。そ知らぬ振りをしてつっ立っている、あの男もね。きっと。

胸中で微笑みながら、高荷は四乃森を垣間見た。相変わらず、愛想の無い顔で静かに佇んでいる。操が聞いた。

「で、恵さん、アイツと何を話してたの?」

好奇心が溢れるようなその瞳で、高荷の顔を覗き込む。
そうね、そう前置いて恵は人差し指を軽くその顎へ乗せ、考える素振りをした。

「・・・昔話よ。」

そう言って、高荷は斎藤が消えたであろう先の玄関をぼんやり眺めた。開け放した扉の向こうには、暖かな陽だまりにそよぐ木々が見る。秋が近づいているから、空もこれからどんどん高くなっていくはずだ。何をしていても、何処にいても、季節は等しく巡るもの。そんな当然が待ち遠しく、どこか寂しくて、そんなことが愛しい。
東京に来て、よかった。そう思える自分を今、誇らしく思う。

そして独り、胸の中で呟いた。

さようなら。
強がりで、格好の悪いことが嫌いなお馬鹿さん。
きっともう、あんたと話すことも無いでしょう。
秋が来たら、あの地へ戻る。
父の居た、私の故郷に。

見つめた先から、返事は来ない。でも、来ない返事の静寂が否定でないことを、高荷はもう十分に知っている。

「・・・さ、仕事仕事!」

振り切るようにそう言って、高荷は晴れやかな笑顔を湛えて診察室へ戻って行く。
一陣の風が、古びた診療所を爽やかに駆けた。それは、古い季節の終焉と、新しい季節の到来を告げる。

その風が、一部始終を静観していた男の長い前髪を揺らした。
それに促されるように、四乃森は瞑目していた目を静かに開く。そしてその静謐な瞳が、閉じられる扉の奥に消える豊かな黒髪を熱く捕らえた。







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