接近戦

玄関が開いている。

出かける時に鍵はかけたはず。ならば可能性はただひとつ。今日戻ってくることはわかっていた。だからおいとまも早々に急いで帰ってきたのだ。思いがけず長居をしてしまった先の奥様が、いつになくあたふたとする己を、目を丸くして送り出したものだ。…が、しかたない。

心が躍る。草履を脱ぐのももどかしいが、脱ぎ散らかすわけにもいかず、あわただしくそろえる。その横に見慣れた黒い革靴。几帳面に、きちんとそろえてある。

走ってはだめ。慌ててはだめ。いつも落ち着いて品を損なわず、と教えられてきた。
そんなことは簡単であたりまえのことだった。貴方に会うまでは。
逸る心をどうにか押さえ、なるべく平静に、と思いながらそっと襖を開け、居間へ入る。開け放した戸から、高く青い空と煙草の匂い。そして庭を向いている広い背中。欲しかったものの全て。





「まあ、お帰りでしたの?」

努めて冷静に問うてはみたものの、何時もの如く振り向きもせずに、ああ、と答える夫に、どうしても笑顔がでる。歩み寄ると、夫はやっとこちらを見遣った。

「仕事が片付いたからな。向こう二,三日は家に居る。」
「二,三日とおっしゃらず、毎日帰って来てもよろしゅうございますよ?」

そう言って夫の顔を覗き込み、時尾はくすくすと笑う。

「こうも家を空けていると、妻殿に断ってからでなくては敷居を跨きづらくてな。」

煙草をくゆらしながら、横に座った時尾の顔を斎藤は見下ろした。
斎藤の瞳はとても薄い色をしている。琥珀糖の色で、時尾はこの瞳をとても甘く美しいと思う。以前そのことを本人に告げると、鬼やら狼やらの目と言われたことはあったが、菓子の色に例えられたのは初めてだと言って笑ったものだ。
その琥珀糖が時尾の顔をじ、っと見つめている。そして、剣客にしてはやけに細い指がその頬に触れた。滅多にないことなので、時尾は気恥ずかしいというより驚いた。

「時尾。」
「なんです?」

己の名を呼ぶ声が震えている。感情の起伏に乏しく、それがほとんど表に出ない夫が、時尾の頬をなでながら、唇の端をじわじわと上げている。終には目を逸らし、さも面白そうに、声を噛み殺すように笑い始めた。

「何です???何がおかしいのです???」
「…み…。」

夫の笑いは止まらない。これほど笑う夫を見たのは何年ぶりだろう。もしかしたら初めてかもしれない。
時尾は怪訝な顔をして、斎藤ににじり寄り、再度、何ですかと問う。すると勘弁してくれとばかりに、斎藤は時尾から身を逸らす。

ひとしきり笑って、斎藤は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。その目が妙に輝いている。そして、憮然としている時尾に近づき、ひょい、と抱きかかえた。

「あ…。」

一瞬のことだったので、抗うこともできず、時尾は斎藤の腕に小さく収まり、軽々と抱え上げられた。斎藤は、時尾を抱えたまま、居間を横切り寝室にしている奥の座敷へと進んでいく。

「あの…」
「お前にいいものを見せてやろうと思ってな。」

勝ち誇ったような小憎らしい笑みを返される。
何故だか時尾はこれに弱い。思考とは別に、単純にときめいてしまうのだから始末に悪い。
急に胸が早鐘のように打ち始める。直ぐそばに夫の胸があって、互いの鼓動がやけに生々しい。
斎藤は器用に足で襖を開け、座敷へ入る。そしてその隅においてある、鏡台の前に立ち、時尾をゆっくりと降ろし据わらせた。時尾は訳がわからずされるがままになっている。よく言えば折り目正しく、悪く言えば隙の無い平素の時尾なら、ありえないことだ。
鏡にかぶせてある布を持ち上げ、斎藤は言った。

「コレ、だ。」
「…!」

時尾は息を飲む。鏡に映った己の右頬に、細く、しかしくっきりと黒い一筋の線が引かれていた。驚いて声も出せない時尾を、少し腰を屈めて鏡越しに眺めながら、斎藤は聞いた。

「お前、今日は何処で何をしていた?」
「ご近所の児島様のお嬢さんが手習いを覚えたいとおっしゃって。」
「で、その娘にやられたのか」
「いえ、おそらくその弟御でしょう。姉君がかまってくれないと、手習いの間中そばで駄々をこねておいででしたので、筆と紙を与えて、手習いの真似事をさせたのです。きっとその時に…。」
「それは災難だったな。」
「…お言葉ですが、お顔にはそのように書いてはおりません。」

うらめしそうに横目で時尾は斎藤を見る。その、些か子供のような表情が、墨の一文字とあいまって妙におかしく、また斎藤を笑わせた。
時尾の顔から、すう、と柔らかさが消えることにも気付かずに。
目を伏せて再び肩で笑い続ける夫を横目に、時尾は鏡台の引き出しからそっと何かを取り出し、それを唇に乗せ立ち上がった。

「…」

今度は、斎藤が不意をつかれた。時尾が振り向きざまに唇を合わせたのだ。
これも、武家の躾を体現している様な、いつもの妻からは考えられない行動だった。
押し付けた唇をやけにゆっくりと離し、時尾はじっと斎藤を見あげる。長い睫が影を落とし、その黒曜石の瞳に己が映っている。

好い女だ。
墨の一文字が少し奇妙だが。

「時尾。」
「なんです。」
「俺は構わんが。」
「…その前に私もお見せしたいものが。」

見上げたままそう言って、時尾は冷たく鏡を指した。言われるままに鏡を覗き込む。
斎藤の唇は恐ろしく、そして滑稽に赤く染まっていた。

「…。」
「昔から思っていたのです。旦那さまは柳眉をお持ちだし、瞳も切れ長で、唇に紅を乗せたらさぞ映えるでしょう、と。」
「…時尾。」
「お望みでしたらおしろいもお分けいたしましょう。さぞかし立派な女形ができますよ。」

どうやら、できた妻はご立腹らしい。少しからかい過ぎたか、と後悔するがもう遅い。
でも、どうせ怒らすなら、と、いっそ楽しませてもらうことにする。同時に自分はほとほと性格が悪いと自嘲する。が、妻も、この程度で本気でヘソを曲げたりはしまい。
斎藤はまじまじと鏡に映った自身の姿を眺め、呟いた。

「そうだな、おしろいもいいが、紅が足らん。」
「は?」

思いもよらぬ夫の返事に、今度は時尾の思考が止まる。
からかわれた腹いせに少し驚かそうと思ったのだが、この男はやはり一筋縄ではいかないようだ。
ただ、ろくなことは考えていないに違いない。それは目を見れば解かる。この琥珀糖には毒が入っているのかもしれない。知っていて其れを喰らう自分が愚かなのだ。

「・・・私のでよければどうぞ。」

夫の真意は分らないが、足りないなら致し方ない。何をする気だろう。

そう思って、紅を差し出す。小さな入れ物に入った紅は、時尾の掌のなかで、艶やかに光を反射していた。
差し出された紅をちらっと眺めた斎藤は、その手首をつかんで時尾を勢い良く引き寄せる。
弾みでことり、と紅が畳に落ちた。
不意を付かれて倒れこんだ時尾の腰に手を回して掻き抱き、空いた手でその顎を軽く捕らえる。そして指をゆっくりと、艶やかに染まった唇に沿わせた。

「できれば、直に頂きたいものだ。」

さあ、どうする?
そう思いつつ時尾を見つめると、意外なことに時尾は悠然と微笑んで言った。

「差し上げましょう。」

時尾は軽く目を伏せる。妻の反応は正直予想外だった。青くなるか赤くなるかだと思っていた。だが、こういうのも・・・まあ悪くない。そう思って、遠慮なく頂くことにする。

朱に染まった2つの唇が触れる瞬間、なにやら違和感を鼻先に感じた。不審に思って顔を離してみると、時尾が己を見てくすくすと腕のなかで笑っている。
顔を上げると、唇と鼻先を赤く染めたまぬけな姿の己が鏡に映っていた。

できる妻だ。一筋縄ではいかない。







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