寿ぎ

「おめでたいことなんですから。」
「頼んでない。」
「頼まれなくても、喜んで。」

にっこり。
そんな音まで聞こえそうな笑顔を向けられ、斎藤は一瞬鼻白む。
年中無休、野郎所帯の警視局で新年を迎えてしまったことを何が悲しくてと思わないわけではないが、それが仕事と割り切っているので殊更落胆したわけではない。
通常通りの仕事をし、夜勤をし、仮眠をとって一息ついた早朝。それは前触れもなく訪れた。



コン、コン。
ともすれば聞き逃してしまいそうな程控えめな音に、斎藤は閉じた瞳を薄く開けた。室内はまだ薄暗く夜明けの静けさを纏っているが、そろそろ街が動き出す時間にはなっているのだろう。規則的に流れてくるのは、部屋の隅でありったけの毛布と共に転がる沢下条が立てる、寝息というには図々しい鼾くらいだ。
コン、コン。
再度、その音が耳に届く。音の方向に目を転じると、そこには薄暗い空を映す窓と、その空を背負って立つ見慣れた小さな影があった。
出来るだけ音を立てぬよう仮眠用の長椅子から立ち上がり、窓辺に近づく。薪ストーブが消えているとはいえ、外気と室内の温度差は大きい。窓硝子に付いた水滴を手で拭うと、思ったとおり、其処には大判のショールを掛けた妻がやんわり笑って立っていた。そしてその寒さに色を失った唇が声を立てずに、あけてください、と動く。 一体こんな時間に何を、と思いつつ英国式だという厄介な造りをした窓の下部へ手をかけ、それを上へと押し上げると、冷えた朝の空気が、妻の吐く白い吐息の塊とともに、すうと室内に流れ込んだ。

「おはようございます。」

時尾はそう言って微笑んだ。言葉を綴るその都度、真綿のような白い塊が、ぽかりと空に浮く。
元旦の身を切るような寒さの中で、平素と変わらぬ時尾の朝の挨拶にいつものように頷いてみせたものの、その目は思った以上に怪訝な色を宿していたらしい。斎藤が何か言う前に、その問いに時尾が答えた。

「どうしても、お祝いを申し上げたくて。おめでたいことなんですから。」
「頼んでない。」
「頼まれなくても、喜んで。」
「正月の挨拶など、三が日中にやればいいだろう。それに、明日には戻ると言っておいただろうが。」

斎藤のその言葉に、あら、と時尾は意外そうな顔をした。そして、一瞬の間のあと、合点がいったという態でくすくすと笑った。
そして、見上げてあっさりと言った。

「お正月などどうでもよいのです。私が祝わなくても、世間様が宜しく祝ってくださいますから。」

その言葉に、斎藤の眉間の皺が若干深くなる。時折、己の想像を超える思考を持つ妻は、一体何を言わんとしているのだろうか。
夫の、皆目検討がつかぬといった表情を見て、妻は静かに言った。

「私が祝いたいのは、貴方のお生まれになった今日の、この日です。だから、明日では駄目なのです。」

何個目かの白い塊が、ふわりと二人を隔てる空間に優しく溶ける。

自己の存在を、ともすると否定的に捕らえてきた斎藤にとって、妻が時折繰り出す絶対的な存在肯定は、こそばゆいを通り越してどう対処してよいか解からず、困り果ててしまう。故に、気の効いた言葉も返せず、些か呆然として妻の黒曜の瞳を見つめ返すしか術がない。
しばらくそうしていると、つ、と伸ばされた時尾の掌が、窓枠に付いていた斎藤の手の甲にそっと重なった。

「貴方。」
「…なんだ。」
「貴方が生まれてきてくださって、本当に嬉しい…。」

吐く息のその白さの向こうに見える頬が、ほのか紅潮したのは、おそらく寒さの所為だけではない。
重ねられた小さく冷たい掌のその下で、身じろぎも出来ずに斎藤は立ち尽くした。そして、言うべき言葉を模索した。妻の言葉に、見合う何かを差し出すべきだとそう思った。

「…今日は殊更冷える。」

柄にない挑戦は、おそらく失敗だったに違いない。が、それ以外に言うべき言葉が見つからなかった。発した後で、自分の気の効かなさに心底愛想が尽きるが、もう遅い。
軽く溜息を付いた斎藤は、半ば滑稽なほど勢いよく手を引き抜き、妻の肩にかかるショールを引き上げると、それで時尾を頭からすっぽりとくるんだ。

「もう、戻れ。…大事な妻殿に風邪でもひかれては困る。」
「はい。」

斎藤の躊躇いがちに発した言葉に、時尾は嬉しそうにこっくりと頷いた。そして、ゆっくりと朝靄の中へと消えていった。




時尾の後姿を見送り、寒さに我に返って窓を閉める。
どういう訳か落ち着かない気分で胸のポケットをかき回し、とりあえず煙草に火をつけた。そして、誰に聞かせるでもなく、大きく息を吐いた。
すると、待ちかねたように部屋の隅からきひひひ、とお世辞でも上品とはいえない含み笑いが聞こえる。
声の方向を見遣ると、不出来な部下が部屋の隅でむっくりと起き上がり、わが身をその腕でしっかりと抱きしめながら、身を捩るようにして笑っている。

「いやはや、新春早々、なんちゅーか。結構なモン拝ませてもろ…」

張の発しようとした言葉は、永遠にこの世に排出されることはなかった。
躊躇なく歩み寄った斎藤に腹を蹴り上げられて、ぐえ、と呻いた張は、床に盛大にひっくり返りつつそれでも笑いが止められない。
見上げた先で、憮然と表現する以外無い面をした斎藤が苦々しく阿呆、と呟くのを見ながら、今年はエエ一年になりそうや、と張は思った。







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