蛍火

*注:この作品は、拙作"確信犯"の続きです。まず、そちらをご覧くださいませ。


満天の空を頭上に頂きながら、東京の夜を歩く。
入組んだ下町の何処をどう通ったか、どうやって此処まで来たのかも良くわからないが、少し先を歩く痩せた背中は導かれるように躊躇無く路地を進んでいく。そして、己が神谷道場から警視局にたどり着くまで費やした時間がなんだったのかと疑いたくなるほどあっけなく、見知った桜並木にたどり着いた。

すっかり人気の途絶える時間だが、並木道と平行して流れる小川のせせらぎがその風景の静粛を和ませる。ここは夏になると蛍でいっぱいになるのよと、先日己と親しくしている神谷薫は懐かしそうに微笑んで言った。その微笑が、自分とそう変わらないと思っていた年齢の彼女を、以前よりぐっと大人っぽく見せた。それは、昔何処かで誰かが見せた曖昧な笑みに似ていた。
何かあったの、と聞けばよかったのかもしれない。が、己はそうできなかった。そうなんだ、また夏に来なきゃね、と何時も以上にはしゃいで取り繕った。余計なことは山ほど言えるのに、肝心な時に言葉を使えない。そうしかできない己の未熟さを遣る瀬無く感じつつ、ふとあることに気が付いた。
警視局を出て以来己は、そして先を歩んでいくあのヤな奴・・・斎藤は、一言も口を利いていない。にもかかわらず、意外にもその沈黙は決して居心地の悪いものではなかったのだ。
己が若干遅れると、必ず緩まるその歩調。時折、肩越しの目線だけで行われる己の存在への確認。それら全てが、言葉以上に何かを語るのだ。会話というのは、言葉だけで行うものでは無いらしいということを、操は目の前を歩む男から少しずつ感じている。

話さないで居ること。それでしか、伝えられない何か。そんなことが存在するなんて、思ったことも無かった。
言葉にできること、できないこと。したいこと、したくないこと。そして、言葉にすることが許されないことだって、きっとあるに違いない。
そこで、あることに思いが至る。それが、徐々に操の中で得体の知れない怪物のように大きくなっていく。
きり、と親指の爪を噛んだ。
気が付けば、もう少し歩けば神谷道場という所まで来ている。
それが嬉しくもあり、同時に何故か寂しくもある。できれば、もう少しこのまま黙って歩いていたいのに、それでも、何かを話してみたい。相反する二つの感情の狭間で、操は右に左に揺れている。

「ねえ。」

そんなふうに考えていたので、その呼びかけがつと口をついて出たときは、正直その後に続く言葉を用意してはいなかった。だから、呼びかけたまま、操はぐ、と黙り込んだ。
また、だ。アタシは、本当に使えない・・・その自己嫌悪に再度陥りそうになる。

やああって斎藤が、何だ、と振り返らずに答えた。それに促されるように、操はとつとつと言葉を紡ぐ。言いながら、頭上の星を仰いだ。せめて、顔だけは上げていたかった。

「・・・男ってさあ、・・・やっぱ髪が長くって、唇が赤くって、肌が抜けるみたいに白くって、目元が色っぽい女の人がいいわけ?」
「・・・何故そんなことを聞く。」
「別に・・・ちょっと聞いてみたかっただけだよ。」

さりげなくそう答えたものの、本当は、別に、などという簡単な言葉で括れることではなかった。それは、先程気付いてしまった、積み上げられた破裂しそうな感情だった。

神谷道場に出入りする、あの美人。己の想う彼人とも、縁の浅からぬ人なのだと最近知った。
その二人が時折交わす目線が、そして、かち合った視線を慌てて逸らすその様が、気になって仕様が無い。が、其れを本人たちに問うわけにもいかず、かといってそれ以上の事を踏み込んで周囲に聞くこともできず、悶々としていた。何より、己の不用意な言動で、既に出来上がってしまっている人間関係に亀裂を入れたくない。それが、たとえ表層だけの均衡だったとしても。 だから、ずっと誤魔化してきたのだ。己は何も見ていないし、何も気付いていない、と。

溜め込んだ感情の鬱積が、沈黙という不思議な安心感の心地よさで、つい口から零れ落ちてしまった。だが心のどこかで、この男になら聞いてもいいかと思っていたのだ。神谷道場に関わる人々を知っていて、なおかつ仲間でないこの男なら、とりあえず聞いて後腐れは無さそうだし、溜まりこんだ感情の、吐き出し先にはうってつけだろうと踏んだ。
ふう、という軽い音と微かな笑いを伴って、紫煙が緩やかに流れた。

「イタチには逆立ちしたって成れん代物だな。」

・・・聞くんじゃなかった。途端に操は後悔する。
この男が、他人の微妙な感情に配慮して答えるなど在り得ない。当然といえば当然の反応だった。

そうなのだ。己に、なれるわけが無い。
そんなことは、十二分に解かっている。
あの人のように、凛としていて、頼りになって、頭がよくって料理も上手で、其れでいて憂いを湛えた・・・大人の”女”になど。
彼女がそうなったのは、彼女自身が他人には到底癒しようの無いほどの辛い過去をたった独りで歩んできたからだ。だからこそ、彼の人の心の奥底と共鳴するのだ。 解かってはいるけど、それが悲しい。頭にくるとか、もどかしいとか、切ないとか、そういったものではない。ただ、その正しい現実が、己の手には届かない、変えようの無い遍歴への距離が、つくづく悲しいのだ。

唇を噛んで黙って歩いていく。見上げる星々が、何時も以上に煌いて見えるのは何故だろう。長々とそうしているので、支える首が悲鳴を上げているのだが、今更顔を下げれない。下げてしまえば、また溢れてしまう。だから、ぐっと奥歯をかみ締めて、操は星の数を数えた。
すると、斎藤が呟くように溜息混じりに言った。

「だが、そんな一般論を適用するような男なら、どうせ詰まらん奴だ。相手にするな。それに、」

そう言って、突然立ち止まる。
頭上を見上げて歩いていた操はうっかりその背中にぶつかってしまった。強かにぶつけた顎をさすりながら今度こそ文句の一つでも言ってやろうと、あんたねえ、と剣呑に呟くと、遮るように斎藤は低く言った。

「・・・あの伊達男は、どうでもいい奴を長々と待ったりはせん。」
「・・・あ・・・。」

闇の中に浮かぶように見える神谷道場の門柱に、見間違いようのない長身の影を見つける。
まさか、と思う。でも、否定しようが無いほど、嬉しい。途端に跳ね上がる鼓動が、世界中に聞こえてしまいそうだ。

「行け。」

いつの間に己の背後に回ったのか、斎藤に軽く背を押されて、よろめく。そしてそれを切欠に、操はつんのめる様に走り出した。

待っていてくれた。
私を、待っていてくれた。
私を、

『どうでもいい奴を、待ったりはせん。』

その言葉が、操の心の中を微かに流れた。
足がもつれる。手が空を掻く。静かに佇んでいた長身の影が、己の名を小さく呼んで此方にその身を向けた。

本当は、その腕に飛び込んで行きたいけど、今はまだダメ。ここは元気良く、何時ものアタシで笑って「ただいま」が相応しい。でないと、この人は困ってしまう。不器用なのに優しいから、きっとアタシを傷つけないように、なんて似合わない無理をするに違いない。
だから当分、騒がしいイタチでいてあげる。
佇むその人の前で急停車し、ただいま、と言葉を紡ぐ。ああ、と何時もの様に軽く言って、彼人は暗がりへ視線を遣る。そして、何も言わずに頷いた。

答えるように暗がりで赤い点が微かに上下に揺れる。
それは夏の蛍のように儚げに、そしてゆっくり点滅した。




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