現人の

夏もそろそろ終わろうかという時期なのに、今日も日差しは容赦なく厳しい。空気が湿気を含んで大きく停滞している。その中を一歩、一歩、歩んでいる。

「…めっちゃ暑いわ。」

独り言すら、わずらわしい。頭上から照りつける日光をさえぎるような影もない。どこからとも無く、一匹のセミがやかましく鳴き始め、それに呼応して次から次へと、ほかのセミが鳴き始める。それらすべてが張をぐったりとさせる。
任務のため、武器密輸組織のアジトと思われるところに忍び込んだのはよかったが、連中はとっくにほかのアジトへ移ってしまっていた。そのことをあの、絶対零度の眼差しを持つ上司に報告せねばならない。最悪である。そのことも、この、年中前向きな男の気分を腐らせるのであった。

「…本気でトンズラここうかのう…。」

そう思いながら、警察署の門をくぐる。通常、張のように、密偵を主の任務とするものは裏口から署に入るものであるが、それはそれ、この男の妙に人好きする性質が、他の署員との間に程よい人間関係をつくらせている。門柱で警備に当たっている五等巡査に軽く片手をあげると、まだまだ少年の面影を残す巡査は、ニカっと笑った。

景気の悪い足運びで署内に入る。署内の薄暗さと開け放した窓を通り抜ける風が、若干、不快な暑さを和らげている。とりあえず、上司への報告を終わらせるべきである。時間がたてばたつほど、張のおかれる状況は悪くなるのは目に見えている。しかたなく彼が陣取る資料室のへ向かって、階段を上る。階段を上がるにつれ、一階の煩雑とした空気と人の声が遠ざかり、少し涼しくなるように思える。

踊り場を曲がったところで、いつもとは違う風景に出くわした。階段を上がりきったところの、窓際に置かれた長椅子に、一人の女が座っていた。

警察署というところは、一言で言えば男の世界である。とにもかくにも、むさくるしいことこの上ない。大体、制服の色が悪い。紺の制服を着た男共が、10人20人といる風景を見るだけで、張は正直うんざりする。だからこそ、この女の存在は、この男臭い職場にそぐわない。 何かを陳情しにここに来たわけではなさそうである。そうならば、一階の待合室で、ほかの陳情者と共に、汗をかきながら警察の不手際や効率の悪さに悪態をついているはずである。

階段を上がるごとに、その女の全貌が見えてくる。涼しげな若竹色の着物。漆黒の髪を上品に結い上げている。そして、目の覚めるような、抜けるような白い肌をしている。どことなく凛とした雰囲気。が、それは武家の女特有の押し付けがましい上品さ、とは違う。帯や襟などの色使いをみると、市井の粋を知っている女のようでもある。かといって、どこぞの御大尽の囲われもの、といったすさんだ匂いがない。

(かんばせ、拝んでみたいわ)

そう張が思っていると、女がおもむろに顔をあげ、張をとらえた。黒い、深い色の瞳と淡い唇。歳の頃は、27,8といったところか。もしかしたら、三十路を迎えているかもしれない。よく世間で言う‘美人‘、というのとは又違う。

いい、女。そう思ったことが見透かされたようで、少し、たじろぐ。

張とて、一時は日本の暗黒街を牛耳った一派の特攻隊員である。昔から、人を斬ることも、女に悪さをすることにも、なんら良心の呵責を覚えたことがない。
いい女を見たら、とりあえず声をかける。奪う。うまくいけばそれでよし、後でややこしいことになれば斬ればよし。ただ、である。

(…こういう女は、あかん)

幕末から今に到るまでの戦争と変革の中、女という生き物もまた、激しい時代を生きている。含むところもあれば後ろ暗いところも当然あって普通である。しかし、時に、そういった陰惨な臭いをまとわない女に出くわすこともある。そういう女を見ると、張はらしくもなく、思うのである。

(情やら因縁やら殺し合いやら、そんな汚いもん、見せたないなあ…。)

階段を上りきって、その女のほうに歩む。女は張から視線をはずさない。張が近づくにつれ、見上げるように顔を上げる。

(北の女、やな。)

張はそう思う。女は冬の冷たい空気と静けさを纏っている。

「あんさん、ここでなにしてはりますんや。」
「…は?」
「待合室は下やで。なんなら、わい、案内しましょか」

まあ、…そう言って女はふうわりと微笑んだ。

「いえ、わたくし、人を待っております。」
「…せやから待合室は、下ですって。」
「はい、存じております。ただ、ここで待つように、と。」

(なんや、調子くるうわ)

女に、纏った空気とは逆の、暖かい穏やかな笑みで言葉を返され、張はいささか返答に困った。

「ま、好きにしなされ。」

そう言って、廊下を右に進む。その背中で、女が感謝の辞を述べているのを聞く。振り返らず、片手を上げてそれに答えてやる。

(なんや今のわい、ちょっとかっこええんちゃう??)

そう思うと少し口元が緩む。不思議といつもの明るさが戻ってきたような気がする。気を取り直して、関係者以外立ち入り禁止、と書かれた資料室のドアをノックした。返事などあるわけがないので、いつもどおり間髪いれずにドアを開ける。

紫煙の霞の向こうに、琥珀色の鋭い目が見える。その目を見た途端、張の一瞬の高揚感が吹き飛んだ。

「…手ぶらか。」
「まあ、怒らんと聞きなされ。」
「使えんヤツめ。」
「…そりゃいくらなんでもキツイわ。」
「フン」
「まあ、本体は逃げよった後やったけど、それなりに手がかりになりそうなブツは抑えてきてんから…」

懐から、旧アジトから失敬してきた何枚かの書類と、残されていった証拠品の一部を取り出す。

「今回は空振りやったけど、次はいけるで。」

張は勤めて明るく言う。上司は無言で張の持参した資料を見ながら、煙草に火をつける。こういう時は、この上司にかまってはいけないということを、張は密偵になって直ぐに察した。資料室の隅に置かれたソファに腰を下ろす。しばらくして、声がかからなければ、それは帰れ、ということである。

「あっついなあ…」

誰にいうでもなく、そうつぶやく。天井はすでに煙で霞んでいる。張も煙管をやるが、ここまで吸うことはない。だいたいこのおっさんは、家に帰ってるんやろか。なんやずっとここに居る気がするけど。そんなことをあてもなく考える。

「…おい。」

おいでなすった。
張はゆっくり腰をあげ、上司のもとに向かった。



思った以上に勤勉な上司から次の指示を得て、資料室から開放されたときには、日もかなり傾いていた。どこかでヒグラシが鳴いている。
「ほんま、人使いのあらい御仁ですわ…」

そうぼやきながらも、割とこの仕事も嫌ではない。もともと、面白ければなんでもいいのである。あの上司のそばで密偵をしている限り、当分退屈はしないだろう。ただし、今日はもう働く気はない。どこかで祭りばやしの音がする。

「ああ、もうそんな時期やあ…。」

屋台でも冷やかして、いったん寝座にもどるか、などと考えながら廊下をあるいていると、またあの女に出くわした。同じ長椅子に座って、少し体をねじるようにして窓の外を眺めているその女を、夕日が赤く染めている。

「あんた…まだここにおったんかいな」

張に声をかけられて、女は振り向いた。張を見て、少し笑う。

「はい、待つようにといわれておりますので。」

女の声には、待ちつかれた様子もない。焦れたようでもない。

「せやかて…。」

ふふ、と女は笑う。

「必ず、来てくれますから。」

張は急に腹がたった。この女は、いつも待たされているのであろう。それを苦にしているようでもない。それどころか、必ずその待ち人が来ると思っている。それを好い事に、其奴はまたこの女を待たせるのであろう。

「ほんま、こんなべっぴんさんを待たせるやなんて、どこの唐変木じゃ。わい、そのアホ、呼んできますわ!」

「…呼ばれるまでもない。」

背後から、聞きなれた声がした。
その途端、はじかれたように。
花が開くような微笑みが、立ち上がった女から溢れる様に零れ落ちた。それは長い冬から春が目覚めたような、一瞬の、しかし劇的な変化であった。

うわ、めっちゃ綺麗や…

不覚にも、見とれてしまい、反応が遅れた。振り返ると、そこには張の上司が立っていた。悪人どもを一瞥でたじろがせる瞳が、まっすぐに女をみつめている。そして、その薄い唇からもれたのは、張にとっては驚愕の一言であった。

「…待たせたな。すまん。」
「いえ、そうでもございません。」
「行くか。」
「はい」

2人にはさまれて、張は絶句していた。上司を見、女を見、そしてまた、上司を見る。

「…なんだ、貴様、まだいたのか。」

じろ、と張を見ながら、上司が言う。

「…そりゃ、あんまりな…」
「いろいろと、お気遣いをいただきましたの。」

女が、上司を見上げて言う。ち、と小さく舌打ちして、つくづく面倒臭そうに斉藤が言った。

「沢下条だ。共に仕事をしている。」

女は、まあ、と言って、張に向き直る。そして深々と頭を下げた。

「時尾と申します。藤田がいつもお世話になっております。」
「…へ…。」

これが、この女が、

「世話になど、なっていない。」
「あなた。」
「…」

固まってしまった張をそのままにして、斉藤は歩き出す。
今後とも宜しくお願いいたします、と微笑みながら丁寧に頭を下げる時尾に、へえ、と気の抜けた返事しか返せない。では、といいおいて、時尾は斉藤を追いかけていった。

薄暗がりの広がる廊下に張は立ち尽くした。窓から眺めると、先程の二人が連れ添って歩いている。長く伸びる二人の影が、付きつ離れつとゆれながら、闇の一部に解けていくのを、不思議な面持ちで眺めた。

眉ひとつ動かさず、鬼人のように人を斬っている様を何度も見ている。その、人の感情などを、持ち合わせているのだろうかと、少々疑りたくなる上司が、実は結婚しているとは聞いていた。
だが、自分の知っている斉藤と、妻帯者という家庭の温かさを伴う役目がどうも一致しなかった。人の悪い冗談だと、なかば思っていたのだが…。

「…ほんまに、現世は不思議なことでいっぱいやわ…」

見上げた空に、大きく花火が上がった。遠くから、わあ、と人の声が上がるのが風に流されてくる。ちりちりと舞い落ちる光を目で追い、つと眺めた先に、もう彼の2人の影はない。
妙に人恋しい気分になって、張はコリ、と頭を掻いた。






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