間奏曲



「知らん。」

盛大な溜息と共に吐き出されたそれは、向き合う端正な顔に軽い揺れをもたらした。
しゅんしゅんと、軽い音を立てて薪ストーブの上に鎮座する薬缶から吐き出される白い湯気は室温を上げこそすれ、 二人の男の間に存在する空間を暖めることは無い。

西洋の何処かの国の神話に、永遠に石を山の上まで運ばなければならない罰を負った者の話があった。 苦労して押し上げた石は、神の力によって、頂上からまた麓へと転がっていく宿命となっている。 結果をもたらさぬ努力こそ、人間の感じうる最大の苦痛かもしれぬと想像した先人は偉大だ。四乃森蒼紫は、琥珀の冷たい双眸を見詰めつつ、そう思った。

「あれは、慣れぬ土地では迷う。」
「御庭番衆の一員としちゃ大問題だな。」
「…だから手元においている。」
「成程。道理だ。」

あまり接点が無いが、一筋縄で行かぬ男だということは嫌になるほど知っている。
何より、言葉で相手を説き伏せられるほど、己は言葉の使い方を知らぬ。
しかし、無駄だと解かっていても、問わずにはおれぬこともある。
だからこそ、出かけたきり帰らぬ操の行方を知っているのでは、とその万一の可能性に賭けて此処に来たのだ。

そんな四乃森を、面白い物を見るような目付きで眺める斎藤の背後で、曇天の空から白い結晶が舞い降りる。冬の名残か、と肩越しに それをちらりと眺めた斎藤は、苦笑交じりに呟いた。

「腹でも減れば、戻ってくるだろうさ。」
「昼餉には戻ってこなかった。」

即答、と言っても過言ではない四乃森の些か小さな声に、斎藤の目が軽く見開かれた。そして次の瞬間、煙草を抱えた細い指が、その薄い唇ではなくこめかみに移動して揉む様に触れた。ゆっくりと、首をぐるりと廻して溜息をつく。何処かの関節が鳴った。

眼前の、役者のような男の面に、感情を読み取ることは出来ない。が、この男なりに、なにやら必死の態らしい。 常日頃の、冷血と表現してもいいその論理的で冷静な判断能力は、その故あって冬篭りということか。
行方不明などと大仰なことを言うから、戻らぬようになって数日は経っているのだろうと思っていたが、 何のことは無い、たかだか半日のことではないか。猫でもそのくらいは平気で留守にする。五つ、六つの幼子ならまだしも、世が世なら立派な成人とみなされる歳の人間の、ほんのわずかな不在だけで、己はこの無愛想な 面と、さして面白くも無い禅問答のような会話をしている。
一瞬、死体置き場のことすら考えた斎藤は、呆れて軽く頭を振った。

過保護もここまでくると、迷惑以外の何物でもない。
思わず本音が出た。

「…阿呆か、お前は。」
「こんなことは、今まで無かった。」

亡羊とした声音は、この男にはらしからぬ焦りを示す。斎藤は、唇を歪めた。それは、冷笑でも嘲りでもなく、表現できぬ心境の一端が何かの拍子に滲み出た感であった。

「あれに何かあっては、先代に申し訳が立たん。」
「死人に義理立てとは、殊勝なことだ。」

そんな戯言は聞いていない。本当のところは、どうなのだ。
言下にそのことを匂わすように、斎藤が冷たく答えると、四乃森は追いかけるように言葉を紡ぐ。

「それに、…。」
「それに?」

鸚鵡返しのように問われたそれに、四乃森は終に言葉を詰まらせた。

しゅんしゅん、と、飽きること無く流れるその音が、やけに耳の奥を刺激する。言おうとしていた言葉が、果たして意味をなすだろうかと、 やけにぼんやりとした頭の隅で考えた。答えは、すぐにでた。

「…いや、こちらのことだ。邪魔をした。」

しばらく瞑目した後、そう小さく呟いて、四乃森は踵を返す。入ってきた時と同じように去っていくときも、微かな音すら立てないその歩調が、 いつもより心持ち重いのを、斎藤は奇妙な物を見る目で見送った。その視線の先で、静かに扉が閉じた。

(あれも、人の子ということか。)

正直、意外というか、驚いたというのが本音だ。
短くなった煙草を、容量をはるかに超えてしまった灰皿の隅に押し付けて、座った椅子に深く身を預けて嘆息する。
そのまま投げやりに身を反転させると、窓越しに粉雪の円舞が横目で見えた。一様で無いその様はどこか、去っていった男の時折定まらぬ視線の揺れと似ていたと、そんなことを考えた。

人というのはつくづく罪深い生き物だ。
傍には置いておきたいが、かといって、距離を縮められても困るという、利己。
いつまでも、脳裏に描く心地の良い、そして都合の良い偶像のままでいて欲しいなど、ありえぬことだ。人は、変わるし、言うまでもなくそれは生身だ。
現実は、想像をはるかに上回るほど厳しく、残酷で、思い返してみれば時に腹立たしいほど単純なものだ。そして、それに気付いたときにはすでに手遅れということが往々にして起こる。
その否定しがたい世の真理に気付かぬ阿呆ではないと思っていたが、過剰評価だったか。それとも、意図的に気付きたくないだけか。器用な性質では無いだろうと踏んでいたが、まさかこれほどとは。

いずれにせよ、俺には関わりの無いことだが…さて、どうしたものか。
天井のある一点を、琥珀の瞳がやけに面白そうに見つめた。





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