心模様、雪



それは、目に見えない。
それは、息をしない。
それは、触れられない。でも、しっかり其処に在る。


おい、ちょっと膝を貸せ、と言った時にはもうその頭を膝へ乗せているのだから、この人は本当に他人の都合というものを考えないのだと 時尾は思った。

ここ二,三日、東京は毎日寒空だったが、今日はにわかに晴天に恵まれた。天気がいい時に、掃除もしたいし庭先の片付けもしたい。 外での所用も、足元の悪くない今日のような日に済ませておきたい。 だが、早朝、これもまた何の予告も無く外套に包まるようにして戻ってきた夫に振り回されて、時尾は何一つできないでいる。

慌てて風呂を沸かし、朝食の用意を整え、着替えをし、と目まぐるしく時間が過ぎ、やっと落ち着いたと思ったら、今度は庭に面した日当たりのいい 部屋に陣取った夫に、お前もつきあえ、と強引に座らされた。 自分はつくづく貧乏性というか、損な性格で、無為に時間を過ごすということが出来ない。何時も忙しくしていないと落ち着かない性分だ。 だから、縫い物を持参して、火鉢をはさんで向き合った。茶を淹れ、ちくちくと針をを動かしながら、これが出来る頃にはもう梅が咲きますね、などと、 他愛の無い話をする。夫は黙ったまま、何も言わない。まるで、庭とはなしているようですよ、と時尾はぼやいた。

夫は不思議な男だ。自分を傍に置きたがる癖に、殊更話しかけるわけでも、相槌を打つわけでもない。庭先の南天の赤い実が、ほとりほとりと白い雪の上へ落ちるのを 煙草をふかしながら静かに眺めている。だが、それも見慣れた日常の一片となって久しい。

一度仕事にでかけると、十日や二十日戻らぬことなどざらにある。そのくせ、一度戻ってくると、一週間は家に居る。 規則正しい勤務形態が理想とされる官憲の職にありながら、何故だかその対極にあるような生活実態で、そしてそれを気に留めるでもない夫の些か不遜な態度に、 一緒になった頃は多少驚かされた。が、時を過ごして互いをより知るにつけ、徐々に自分自身がそれに馴染んでいった。広い世界で、沢山の人々が其々に生きているのだから、 まあ誰に迷惑をかけるわけでなし、こんな形の夫婦があってもいいのだろう、とまで思うようになった。

そういえば、一度、夫が毎日帰ってくるという 生活をしたことがあった。肌寒い朝、神妙な顔をした夫が、『当分、このような暮らしだ』と告げた日に、それは始まった。あれは、鎮西の前、そうちょうど、 如月の今時分のことだったか。毎日顔を合わす生活に慣れていなかった分、奇妙な気恥ずかしさがあったものだ。あの頃はお互いまだ若くて、 少し帰りが遅いと要らぬ心配をしたり、逆に心配させたり…。夕立の中、傘を抱えて停車場まで迎えに行ったこともあった。なのに二人で一つ傘の下で戻ってきたりした。そんなことを、数え切れぬほど 繰り返して、今、自分達は穏やかに向き合っている。

染まっていったのは生活の在り様だけではなく互いの心の空なのかも知れぬと、当時のことを思って、時尾は小さく笑った。

と、その時、膝の上に在った着物が視界から消えた。
次の瞬間、見慣れた顔が降りてきて、膝を貸せ、とぶっきらぼうに言った。

まだ、針を刺したままでしたのに、危ないですよ貴方。
そう覗き込むようにして言った時尾をちらりと見た夫は、それがどうした、これは俺のものだ、縫い物などにはやらぬと欠伸交じりに呟く。
あまりの言われようだが、それでも薄く開いた瞳の色を無性に愛おしく感じるのは所詮、お医者様でも草津の湯でも、という奴だ。
改めてそう気付いた途端、時尾は言いようの無い居心地の悪さに襲われて、そっけなく言った。

「いい大人が、何をおっしゃいます。」

すると膝の上の男は目を閉じたまま、薄く笑う。

「顔が赤い。」
「…意地が悪いにも、程がありますよ。」

喉の奥で、勝ち誇ったように笑うその頬でもつねってやろうか。
そう思って伸ばした手は、横たわった男の骨ばった右手に絡め取られる。そして、そのまま眠ってしまったようだった。

時尾は深く、そしてゆっくりと吐息を吐き出す。空いた片手で夫の髪をもて遊びながら、当ても無く遠くを眺める。
今日も、明日も、こうやって過ぎていくのだろう。振り回したり、振り回されたりしながら。あれもしたかったしこれもしたかった、と心の底 でぼやきながら、それでも膝の上の重みをどうすることもできずに。

目の前には、晴天の空と硝子越しの温かい日差し。
時折火鉢の中の炭が、かちりと音を立てて弾けるだけの、静かな一時。
今、何時分だろうか、と一瞬頭をよぎるが、それすらもうどうでもいいことのようにも感じる。

音も無く、やってきたそれは、いつからか其処にあり、今も此処にある。
一つ一つは小さいそれは、ともすれば気付かないことのほうが多いし、掴もうとすればするほど遠ざかる。 目を閉じて、腕を広げて、ただやってくるものを感じるだけ。それは、触れれば解けてしまう、淡雪の様に似ている。


南天の実がまた、ほとりと落ちた。
幸せだと、時尾は閉じた瞳に微笑んだ。






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