これから
しゅんしゅんと鳴る薬缶と、時折かたかたと風に揺れる窓硝子の合奏が続いている。
長身痩躯の身を深く椅子に沈めた男の瞳には、常時の冷たさよりも予想と想像と、そして微かな期待の愉悦に溢れている。できた女、と
称される男の妻がその瞳の煌きを見れば、
きっと溜息交じりにこう言うだろう。
…貴方、今度はどんな悪巧みをしておいでです、と。
天井の一点を面白そうに見つめていた男・斎藤一の唇が、ゆっくりと静かに、そして確信的に言葉を紡いだ。
「…蜘蛛。」
斎藤のその声に、書庫の奥の気配が大きく揺れた。そして、ぎゃあ、という叫びと共にがたり、と音がして天井に隙間が出き、
細身の小さな体がそこから転がるように落ちてきた。
「ど、どこ!?どこー!?」
体を捩るようにして背中に手をやる娘を、さも面白そうに見つめながら、斎藤は溜息をつく。やれやれ、相変わらず騒がしいことだ…
、と思うが、思い通りも此処まで来ると呆れるを通り越して正直感嘆する。同時に、この娘の何処がどう複雑で、
あの男を混乱させるのかと思わずにはいられない。引き続く喧騒をやり過ごしつつ煙草に手を伸ばし、最後の一本を咥えると、空になった
箱をくしゃりと握りつぶして屑篭へ放る。歪んだそれは、綺麗な放物線を描いて、治まるべきところへと消えた。
「お前のその解りやすい気配に気付かんとは。御頭というのも大したことはなさそうだな。」
揶揄い交じりにそう言えば、またしても想像通りの反応が返される。
操は眦を吊り上げて叫んだ。
「そんなっ!蒼紫さまはっ…!」
「まあ、その程度には動揺しているということだろうな。」
どうでもいいことだが、と付け加えて斎藤が言うと、操はそれまでの騒がしさが嘘のように黙り込んだ。少し目線を落とし、眉間に皺
を寄せたその姿は、まるで雨に濡れて萎れる花のようで、何時ものその娘の破天荒ならしさとは程遠く、奇妙なずれを感じさせる。
目を移せば、窓の外の粉雪は何時の間にか止んでいた。曇天の空は、それでも肌寒さを否めない。ストーブの赤い炎がゆらりと隙間風に揺れた。
「・・・解かったら、もう帰れ。鼬のお守りをするほど、俺は暇じゃない。」
長い沈黙の後、斎藤が、この男には珍しく諭すような口調で言った。
その声に操はひくり、と肩を揺らしたが、動くことはなかった。こんな場合は、どうすればいいのか。斎藤は内心、途方に暮れた。
対象が女であれば、それなりに手があるのだが、鼬ではどのような手段が効率的なのか。その辺りが微妙だな、と思った瞬間、冷徹無比と呼ばれ
る男の意外な動揺が少しだけ解った気がした。女でも娘でもないから厄介だ、ということなのか。いや、娘
が思いも寄らぬ速さで女になるから困るのか。それは男の側の、独りよがりな願望という奴か。それとも、現実からの逃げなのか。
昔なら相手の都合などどうでも良かった。娘だろうが女だろうが、考える前に手が伸びた。しかし、今、肩を落として何かを思う不可思議な
存在を前にしての、想像だにしなかった思考に自分自身が驚いている。
俺も歳をとった、とそう言えば、昔の同胞が墓の下で腹を抱えて笑うだろう。もしくは、北の大地の果てで眠る元
上役が、この無粋者が、と苦笑しながら煙管を打つだろうか。そんなことを、火の無い煙草を唇の端でもてあましつつ、当てなく考えていた。
俯いた顔から、突然くぐもった声がした。
「あんたさあ、奥さんが居るって言ってたよね。」
「それがどうした。」
「時尾さん。」
「一々確認するな。鬱陶しい。」
「何で、時尾さんなの?」
顔を上げて、操は真っ直ぐに問うた。視線の先には、苦虫を噛み潰したような顔をして、いけ好かない男が座っている。
世の中には、数え切れないほどの女がいる。なのに、何故その女なのか。何故、彼女なのか。
私の想う人は、私以外の人を見ている。何故、私ではないのだろうか。こんなに近くに居て、胸が苦しくなるほど想っているのに。
求めてさえくれれば、喜んで私の全てを差し出すと言うのに。
何故、彼の人は、その手の届かぬ彼の女を求めているのか。
それとも、届かぬ人だから、なのか。男という生き物は、自分には良くわからない。大体、この世には、
解らないことが多すぎる。解りたくない事は嫌というほどすんなり解ってしまうのに、肝心なところは謎のまま。生きる、ということは
時に残酷なほど皮肉だ。操はそんなことに思いを馳せていた。
斎藤は、腰掛けた椅子をくるりと回転させ、背に負っていた窓に向き合う。シュ、と軽い音と共に、燐寸の独特な香りが部屋を横切った。
天井まであろうかというその大きな窓の向こうで、枯れ枝が風に吹かれて揺れている。ふわりと上がった紫煙が、それに併せるように
柔らかい軌跡を描いて四散した。
やああって、背中ごしの声がした。
「…想像した。」
何を、と問うことすら憚られるほどに深い声音で斎藤は続ける。
「あの女の居ない世界を想像した。」
軽い溜息と共に、体を反転させて操に向き合う。
視線は天井にやったまま、というのがこの男のらしさを如実に表していた。
「思った以上につまらん世界になる。だから手に入れて、そのようなことにならぬようにした。」
「…アンタの傍って、そんなに安全なの?」
「俺以上の危険人物が現れん限りはな。」
そう言って斎藤は、まだそれほど吸ってはいない煙草を、半ば投げやりに灰皿へと押しやった。
その行動は、常時操が目にする斎藤の隙の無い行動とは若干趣を違えていた。ともすれば、感情だけで考えなく身を動かしているような、
そんなぎこちなさを感じた。
この男は、もしかしたら照れているのかもしれない。きっとそうだと、そう操は思った。
「もう、帰れ。」
心底面倒くさそうにそう言った斎藤は、挑発的な笑みを浮かべつつ続ける。
そんな笑みが、小憎らしいほど様になる。つくづく憎たらしいと思うが、だからこそ本音のままこの男とは向き合えるのかもしれないと
も思う。考えてみれば、この男と居る時、己は怒鳴っているか泣いているかのどちらかだ。彼の人の前で、そんな醜態は晒せない。
「男の興味の引き方が、陳腐で姑息だ。まあ、鼬らしいといえば、らしいがな。」
「…どうせ、イタチだもん。イタチじゃなくなったら、きっと困…。」
若干の間をおいて、拗ねる様に呟いた操のそれは、最後は言葉に成らずに細く消え行く。
斎藤はその様を、探るように少し目を細めて静観していた。操の心の中は、今日の空模様のように、螺旋状に連なる思考の
暗雲に覆われていた。
(蒼紫さま、私が女になったら、どうしますか。)
(もう、貴方を追いかけてじゃれてた私じゃないのに。)
(どうしたら、私の今を見てくれますか。)
もう、子供じゃない。でも、子供じみた行為でしか、気を引く方法を私は知らない。
自分が嫌になる瞬間だ。操は震える唇を噛んで、押し黙った。
その時、薬缶の蒸気とも、空を舞う木枯らしとも違った間抜けな音が、低く室内を流れた。
げ、と言って赤面した操に、斎藤はつくづく呆れて嗤った。そう言えば、あの伊達男が昼餉には戻らなかったと言っていた。どうせ、
何も喰わずに此処へ転がり込んだに違いない。全く、鼬のやることは何処までも鼬だ…。
「まったく、餓鬼は腹が減ると碌な事は考えん。来い、食わせてやる。」
「…鰻が食べたい。」
操はぶっきらぼうに告げる。こうなったら、もう意地だ。
突然押しかけたうえに、値の張るものを食わせろというのは、我ながら図々しいこと甚だしいと思う。
でも、この男にそんな気を使うでも無いだろう。
それに、もう既に掻いてしまった恥なら、上乗せしても苦ではない。流れた涙の一筋を、ぐい、とぬぐった。
立掛けてあった日本刀をソードラックに納め、外套を羽織ながら斎藤が苦笑交じりに言い放つ。
「それだけ食い意地が張ってりゃ、問題ない。」
言い返そうとしたその時、操の頭上に、いつぞやの掌が軽く降りた。それは、何時に無く、奇妙な優しさを纏っていた。
その意外な体温を感じながら、操は軽く目を閉じる。心の底に、静かな凪がやってきた。
本当に、心底嫌味な男だが、この手だけはまるで魔法のようだとそう思う。
これから、何処へ行こうか。
それから、どうなっていくのか。
まだまだ、解らないことだらけの世界。大人になれば、解るのだろうか。
何が大切で、何がそうでなくて。何が手に入って、入らなくて。
そして、この割り切れない気持ちの持って行き場も、解る様になるのだろうか。
…楽に、この気持ちをやり過ごしていけるように。なるのだろうか。
「…ま、なるようになるさ。」
操の心中に答えるようなそれに、何わかったような口を利いて、と呟いてみる。
すると、斎藤はちらりと操を見下ろして、意外にも真面目な顔で、わかるさ、とそう言った。それは、どんな言葉よりも重く操の心に届いた。
外に出れば、曇天の向こうに茜色の空が一筋見える。その向こうに、沈み行く夕日の最後の欠片が小さく煌いていた。吹き抜ける風は
身を切るように冷たいが、不思議と気持ちは暖かい。それはきっと誰かが、己を解ると、そう言ってくれたからに違いない。
その日、操は初めて酒を呑んだ。
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