指、届かぬ先



まったく。
この部屋から出ることは無いだろうと思っていたのに、肝心なときに見当たらないとはどういうことだ。
必要な時は、朝だろうが深夜だろうが構わず横着に人を呼び出すくせに、こっちが必要なときはいつも見当たらない。 慣れたとはいえ、やっぱりぬぐえない不条理感。
難儀や難儀や、と毒つきながら、張は執務室を見回した。

篭るように斎藤は執務室に詰める。だから、今日も此処に居ると踏んできたのだが、執務室にその姿は無い。開け放された窓からは春の柔らかな風が吹き込み、室内を漂う紫煙すら今日は薄いように感じる。主の居ない部屋はこんなにもがらんどうとするのか、と張は不思議な気分で頬を掻いた。

「ま、存在感はありすぎるほど在るお人やからな。」

誰に聞かすでもなくそう独り言ちる。

ただし、その存在感とやらが真にあの男に属しているものかどうかは疑問だ。直属の密偵となってまだあまり時間は経っていないが、彼奴は“斎藤”を演じているのではないかと思うことが偶に在る。だからこそ、張は思う。 あの男は、在る日突然、何の前触れもなく消えるのではなかろうか、と。

(十分ありえることやな。明日でも、たった今でも。)

執務室の扉を閉め、ぶらぶらと廊下を歩く。窓越しに見える庭は、桜がほころび始めているからやけに世界が白い。うららかな日差しが、花と其処此処の春の芽吹きを照らし、己はつくづくこういった風景にそぐわないと思う。ぼんやり見ていると、そんな風景の一角に、己以上に違和感の在る人物を発見した。影すら虚ろな、長身の男。

「・・・見っけ。」

追いかけるように階段を駆け下り、その男の下に向かった。




「ここにおったんかいな。」

張のかけた声に振り返ることも無く、斎藤は煙草に火をつけた。ふう、と煙が桜の天井に昇っていく。それを追いかけるように、張も桜の木々を見上げた。満開の一歩手間の花。色と香りに押し流されそうだ。くらり、と目が眩みそうになるのは己だけだろうかなどと考える。自分の少し前に立つこの男は、どんな心持でこの桜の中に佇んでいるのだろう。足元には、煙草の吸殻が2,3本。今来たばかり、ということではないらしい。

前触れも無く遣ってきた春風が、桜の木々を揺らすと、ごお、と耳元で音がした。
はらり、はらり、と気紛れに、花弁が舞う。
斎藤が、す、と手を出し、花びらを受け止めるように掌を広げた。

(ほ・・・え?)

その意外な行動に、張は内心驚いて、手袋に包まれたその手と斎藤を見比べた。

回転しながらゆっくりと不規則に舞い降りる桜たちは、その掌を避けるように、くるくると回って、広げた指の間をすり抜けた。
斎藤は、その手をじ、と見つめている。

舞い落ちる花を捕まえようとしていたのだろうか。それとも、何か他の物を。
その他の物、とは一体何だ。

張は何故だかいたたまれなくなった。目の前の、いけ好かない男が、おそらくきっとその花びらに見るものを迂闊にも思ってしまい、柄になく苦しくなった。

すり抜けた花びら。舞い落ちた儚いそれ。
今、この男はどんな顔をしているのだろう。興味はあったが、覗くことは憚られた。動けぬままに、薄い背中を眺めた。

「・・・花いうんはな、」

張は言った。

「手ぇの届かんところで、綺麗に咲いて綺麗に散って、初めて花、言うんやって。」

そして、自分も手を伸ばし、舞い落ちる花に触れようとする。
黒い手袋に包まれたその手は、花には決して届かない。薄桃色の花びらは、器用なほど的確に、張の指先を掠めて落ちた。

「この、届きそうで届かん、ってところにシビレるわけやな。」

斎藤は、聞いているのかいないのか、しばらく黙っていたが、やがて、ふん、と鼻で笑った。

「・・・この雅が解からんから、おっさんら狼やら東侍やら言われたんやで。」

張は呆れたようにそう言って、続けた。

「女かて、そうやろ。」

どう言ったら、おっさんにもわかるやろうか。
おどけた調子でそう言いながらも、声音そのものは自分でも笑ってしまうほど真剣だ。

「綺麗も、別嬪も、この世にゃ腐るほどおる。でも、一生消えへん女は、いつだって手ぇの届かん女や。」

また、風が吹いた。
吹き上げるようなそれは、斎藤の髪を軽く揺らした。

「振り向いてくれそうで、くれへん。かといってこっちに気づかんわけとも違う。そういう女が、いい女いうもんや。」

な、わかるやろ。

張は軽く笑いながら言う。その笑いとは裏腹に、身の内の深いところで冷たい雨が降っていた。
何処へどのようにかは解からないが、目の前の男が消える瞬間があるとするならば、それはこのような時分ではないか、そんなことを張は漠然と思っていた。


沈黙が降りた。長いような、短いような、それは刹那のようで、永遠のようだった。
その間、己の言ってしまったつまらぬ感傷が、ひどく幼稚な物の様な気がして、張は自嘲気味に頬を掻いた。

煙草を持つ手が少し挙がった。霞みそうな背中が、軽くゆれて低い声を紡いだ。

「つまり、散々貢がされて、挙句手も触れられんと、そういうことか。」
「・・・自分ほんま嫌なやっちゃな・・・。」

其処には何時もの、皮肉屋で口の減らない斎藤一が立っていた。

張は奇妙に嬉しくなった。
毒舌の矢面に立つのも、この男に振り回されて辟易しているもの自分なのに、嬉しい己が滑稽だった。
が、まあそれも良いと思った。長い人生、そんな季節があってもいい。春には春の、秋には秋の、その季節に相応しい花が咲く。 狼の陰になる季節、というのは色気の無いこと甚だしいが、恐らく熱い季節には違いない。面白ければ何だっていいし、そういった意味では最高の立ち位置だ。
案外悪くないな、と一人でにやにやしていると、つくづく小馬鹿にするように斎藤が言う。

「ご苦労なことだな。」

無遠慮なその言葉も、張にとっては花を揺らす春風のようなものだ。
これからどんどん面白くなっていくはず。見逃すなんてヘマはしない。
どうせ地獄行きの決まった身だ。精々図太く、常世の春とやらを楽しませてもらおうか。

さあ、あんたの思うまま、何処にでも行けばいい。
血の沸く修羅場の底でも、口笛吹いてみせてやる。

そんな思いに胸を高まらせ、張は器用に片目をつぶってみせた。

「・・・ちゅーことで、ワイ、すっからかんやねん。」

おっちゃん、カワイイ部下になんか奢ってえな。
手を合わせて、下から覗き込むように此方を伺う箒頭を無言で力一杯叩いて、孤高の狼は桜の園に背を向けた。

花はまだ盛りを迎えてはいない。
しかしそれは完成を迎えていないからこそ終焉を遠く感じさせ、それゆえに美しく、遠い地へ続く入り口のようだった。






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