熱病



夕餉の準備が始まる頃合なのだろう。川を渡って吹いてくる風に、温かい香りが混じっている。夕日というには若干高いところにある太陽が、今日の終わりを告げるように最後の輝きを地上に送り、その光を最後まで味わいたい子供たちが歓声を上げながら走っている。 斎藤はそんなのどかな風景を前に、己の存在だけがそぐわないような気がして、煙草を取り出し、火を点けた。

平和。結構なことではないか。この風景の為に、どれだけの人間が傷つき死んでいったことか。この平凡な世界の為に、己は今日もこの手を赤く染めるのではないか。 十年前、誰もが夢見た風景が、今此処にある。なのに、この居心地の悪さはどうだ。
この世界の為に生き延びた自分だけが、何故かこの世界に属していない。
己が生き得る世界は、やはり戦場しかないらしい。鎮西より戻って以来、その感覚はやけに強くなった。加えて今日は久方ぶりに昔の話を聞いてしまった。

『斎藤君。緋村という男を知っているかね。』

元新撰組の男を捕まえて、何を阿呆なことをぬかすか。大久保という男は、何年経ってもやはり食えぬ男だと思った。初めて会って以来、つまり大久保の密偵となって以来、この腹の探りあいは続いている。

『長州の元人斬りの始末。やはり長州派維新志士のこの男にも行ってもらう。』
『ほお。では俺はお払い箱というわけか。』
『まさか。』

そう青白い顔で大久保は微笑んだ。

『緋村がしくじるということもあるだろう。』
『…しくじって欲しいんじゃないか?厄介な者同士、まとめて消えてくれればお前たちにとっては一石二鳥だろうが。』
『それでも、君だけは生き残る、だろう?』
『当たり前だ。俺は不死身の男だからな。』

そんな会話の後、緋村抜刀斎の力量を測ってくるようにとの指示が出た。

俺が殺っちまったら、どうする。
そう問うと、大久保は優しげな微笑を湛えたまま静かに言った。

『個人的にはそうならぬことを望んでいる。が、そうなった場合は、人斬りが一人、この世から消えるということだ。一番困るのは、君たちがこの段階で相討ち、というやつかな。その場合、志々雄を消しに行く者がいなくなってしまうからな。』

『…その時は、あんたが行けよ。歓待してくれると思うぜ。』

そう言って内務省の執務室を出た。
静かな廊下に、己の規則正しい足音が淡々と響いていた。




俺は、あの人斬りとまた剣を交えることができるらしい。そう思うと血が燃える様だった。こんな感覚は久しぶりだ。

明日からは忙しくなる。まず、現在の緋村の所在、人間関係などを洗わなくてはならない。それと同時に、あの男の剣筋を思い出していた。京都の、月すら赤く見えるほどの血風の中見たあの剣。どのようにそれが舞い、どのように肉と骨を断っていたか。剣が皮を裂き、血が噴出す瞬間まで思い出すことができた。
そんなことを考えているときに、こんな平和な風景を見てしまった。だから違和感を感じるのだろう。己の皮一枚外の世界と内側では、こうも違ってしまっているのだ。
果たして自分が属する世界はどちらか。問うてはみたものの、そのどちらにも己は戻るところが無いような気もする。らしいといえば、これ以上己に相応しい形容は無いように思う。そんなことを思っていると、聞きなれた声で名を呼ばれた。

「あなた。」

そこには、時尾が驚いたような顔をして立っていた。買い物でもした帰りなのか、片手に包みを抱えている。

「まあ…今日はずいぶんとお早いお戻りですのね。」
「…ああ、まあ、たまにはな。」

考えなくても口が動く。自分の中に二つの人格があるようで不思議だ。こうやって、妻と何気ない話をしながら、同時に人を斬ることを考えている。どのように、人を殺めるか、そんなことを考えている。此処に立つ不条理な己は誰だ。そんなことすら曖昧だ。
その時、じ、と時尾の黒い目が斎藤を見上げて、軽く袖を引いた。

「旦那様?」
「なんだ。」
「・・・あまり、遠くのことを考えないでくださいまし。」

今、貴方の前にいるのは、私です。
そう言ってやんわり笑う妻を、斎藤は内心驚きながら見つめた。

「・・・何故、そう思う?」
「さあ・・・何故でしょうね。」

時尾は河原を走っている子供たちを目で追っている。わあわあと、言葉にならない声を上げる子供達の姿は、十数年前に刀や大砲を持ち出して命がけの喧嘩をしていた兵共の慟哭と、大して差は無い気がした。
妻は、土手を渡る風に後れ毛を揺らしながら、少し笑って言った。

「貴方様の考えることは、私などには想像も付きませんけど。でも、貴方が私を見ているかいないかは、私とてもよくわかりますの。」

貴方の瞳も、貴方の声も、貴方の仕草も。
ちゃんと、まっすぐ受け止めていますから。

「貴方は、きっとご自分で思っていらっしゃる以上に、多弁な方ですのよ。」

時尾はそう言って、斎藤の腕に手を添えた。
やんわりと微笑んだ瞳をよそに、その手に込められた力は、有無を言わせぬ程に熱かった。

「帰りましょう、貴方。」

私は貴方のところへ、貴方は私のところへ。
妻らしき女はそう言った。

ふわり、と風が薫る。
そっと、目を伏せて隣を歩く女を斬る事は、きっと犬を斬るより容易い。
でも、己はそうはできぬ。できぬと、この身が知っている。

何故か、そう自分に問うてみる。

女だからか?
否、世界の半分は、女だ。その辺の女など、滅びても俺は困らぬ。
では、情か?
否、情がうつるほど、俺は虚けていないし、そんなものに絆される程、この女も阿呆ではない。

では、何故?
ふと、指先に温もりを得た。視線を落としてみて、初めて腕に会った女の手が、何時の間にか己の指に自身の手先を絡めたのだと解った。指間で、女の少し荒れた手が身じろぐように躊躇うように、小さく蠢くのを感る。女の横顔は、夕焼けに染まって至極高貴に見えた。微妙に落ちた陰影が女の睫の戦慄きを際立たせ、犯しがたい極度の脆さと逆方向の硬度を示し、その光景は危険なほどに甘かった。

女は、小声でなにやら子守唄のようなものを口ずさんでいるようだった。思い出せぬ箇所があるのか、試しては少し考え、繰り返してはやはり違うと笑う。

『この女は、斬れぬ。』

唐突に、そう思った。
その時、己は、死よりも強い病に陥ったのだと、そう悟った。





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