潮流




斎藤に、珍しくも昼の日中に副長・土方からの呼び出しがあった。
呼び出し自体はさほど珍しいものではない、時間帯が珍しいのだ。斎藤が呼び出されるのは、通常決まって深夜であった。
あの男からの呼び出しなど、いい知らせの訳がない。斎藤はそう思う。姦計、陰謀、裏切り、暗殺。その全てを取り仕切る男に名を呼ばれたら、 己の道の先にある結末は二つに一つだ。誰かを死に追いやるか。それとも、己が追いやられるか。そういった幾多の危うい分かれ道を経て、己の振り子はそれでも生 に振れている。明日は、どうだ。明後日は。いや、今夜は。それは解らぬ。否、解らぬままがいい。

(明日など、)

誰にも来ぬのだと、斎藤は感じている。理論ではない。実感だ。
朝晩はめっきり肌寒くなった京の晩秋、それでも晴天の今日は、屯所に射す陽がうららかに暖かい。 何をするでなく、縁側に腰掛けたまま斎藤は朱に染まった庭の紅葉をぼんやり眺めた。

『沖田の奴が、おかしい。』

秀麗な面の美麗な眉の間に深刻な皺をよせつつ、声を落として土方がそういった時、斎藤は胸中でこの男は阿呆だと思った。

俺ぁ総司の後見人だ、あの姉君にくれぐれもと頭を下げられちゃ、受けねば男が廃っちまう。
まだ京へ上ったばかりの頃、仲間内で飲めない酒を戯れに呑んだりすると、間違いなく出てくる口上だった。 それを、そうかいそうかいと原田が茶化し、 永倉あたりが、歳さんもうその話ぁ百篇きいたぜと混ぜ返す頃には螺子の切れた仕掛け人形のように畳の上に伸びているというのがお決まりの 寸法だ。その土方を仕方ねえな、と担いで部屋に運んでいくのは後見されるべき沖田か、人の好い笑顔で誰より酒に強かった井上か、だった。

新撰組を編成するに当たり、土方は沖田を一番隊の組長にした。新撰組の、良くも悪くも看板を背負う隊の頭に沖田を据えたのは、 沖田の実力を十二分に解っていた斎藤にすら贔屓の引き倒しに見えた。それなりに所帯の大きな組織を束ねるには実践的な強さもさることながら 政治的な…つまりは出自であったり年齢であったりといった体裁も必要になってくる。それには沖田は明らかに若すぎた。それこそ永倉などが適任 であったに違いないのだ、それでも。
それでもその大事な看板に沖田を据えたのは、近藤・土方の信任以前に試衛館時代からの繋がりが無ければありえなかったことだった。 公私混同といえばそうだ。ただ、其処には、苛烈な公を成す為には論理を超えたところにある私の部分にしがみ付かずにはおれぬ事情も あった。何にせよ、己には関わりのないことだと、斎藤はとらえていた。己には、世間に振りかざす公もなければ、拠り所にしたい私も無い。 己にあるのは、動かしがたい我のみであった。生きるのも死ぬのも、独りがいい。




(沖田がおかしい、だと?)

この男は、一体今まで何を見てきたのだろうか。
そう半ば呆れつつ、どうしてそう思うのですと問い返した斎藤に、土方は煙管を玩びながらやや自信なさげに返す。

『…はっきりした理由があるわけじゃねぇよ。仕事もきっちりやっている。恐ぇくらいに、きっちりな。』

土方の対面で、近藤が武士の手本だ評する姿勢で正座した斎藤の片眉が、ひく、と上がった。

『そう、…最近の彼奴は恐ぇ…。』
『その役目を命じているのは、副長でしょう。』
『違ぇねぇ。違いやぁしねえんだが、な。』

カン、と小気味よく煙管を打って土方は嘆息した。自己の行動と言動の矛盾に、聡いこの男が気付かぬわけは無かった。その証拠に、口元の微笑も 皮肉気に歪んだ。
土方には、そういうことがよくあった。目の前にある現実を、合理的に時には冷血漢と呼ばれるほどあっけなく処理していく、新撰組の"鬼副長"。 だが、その表の顔に反して、土方の本質は義に厚く、なにより感情の起伏が激しいところがあった。理詰め理詰めに考えた挙句、最後の最後で 迷った時は、理よりも情を取った。そういう性質に仕立てあがってしまった男がいくら鬼だ非情と呼ばれても、結局誰よりも人間臭い。自然、決断に至る道は平坦な時ばかりではない。そんな時、斎藤は よく土方に呼ばれた。あてども無く、ただただ、土方が話すことを黙って静かに聴く。口を挟むわけでも、相槌を打つでもなく、淡々と受け流す。時には 当たり前の、解りきったような本質的な質問を返して寄越す。迷いの小路にはまり込んで最後の決定打を見失った時、そんな詰問するようでもなくかといって 見逃していいほど軽いものでもない問いは間違いなく一定の方向を示していた。その結果、何処其処の誰々を 探って来いといえば、黙って出て行く。何某を斬って来いといえば、明朝には番所からその男が変死していると連絡がある。
陽の巡りより正確で、犬よりも忠実。同じく最年少で組長となった斎藤をよく思わぬものは、口を揃えてそう言った。

『命じられたことを、命じられたよう完遂する。駒としては、完璧でしょう。』

低い声が、地の底から響くように二人だけの部屋を這った。
殺して来い、と命じられたからそうするのだ。そうしなければ、命じた側も命じられた側も身が立たぬ。天下国家も政治もない。 いやあったかもしれないが、もはや無い。 少なくとも、駒には無用のことだった。

『駒、だと…?』
『違いますか。』
『総司をっ、沖田を駒だと…』

ともすれば嘲りすら含んだ斎藤の言葉に、土方は言いようも無い憤りを覚えた。この俺が、あの沖田を駒にした、だと?心外だ。
ゆらりと陽炎のように立ち上る怒りを感じ、斎藤がつと目線を上げた。視線が絡んだその刹那、土方はひやりとしたものに襲われる。斎藤は、意外にも柔らかい微笑を浮かべていた。 しかし、その薄く青い唇から零れる言葉は、どんな白刃よりも鋭く土方の胸を裂いた。

『命じているのは、あんただろう。土方さん。』

斎藤は副長、と土方を呼ばなかった。新撰組という組織になって以来、日野時代の古い仲間が稀に歳さんなどと呼ぶ傍ら、斎藤は土方を頑なに副長、と呼んだ。
そんな男に、久々に懐かしい名を呼ばれた。たったそれだけのことが、燃え上がった怒りを不思議に萎えさせた。そんな自らの不可解な 情動の変化に、土方自体が驚いていた。
相変わらず腹の読めねぇ、小狡ぃ餓鬼だと、そう思いつつ、琥珀の底を覗き込むべく目を据えた。奇怪な炎が見えた気がした。

『俺達を駒にしたのは、あんただろう。』

そう、静かに告げる琥珀の瞳の向こうで静かに盛る焔に、土方はやけに呆然とした。目の前に座る男のことはかれこれ長いこと知っているはずだった。それが、 いきなり他人の、否、得体の知れぬ怪物のように思えてくる。その感覚は、まさに沖田に感じていたものと微妙に重なっていた。

同族。こいつらはとんでもない禽獣だ。
斎藤はその冷めた微笑のまま言った。

『ただこちらも、好きで駒をやっている。できぬ世話は焼かぬことですよ、…副長。』



どうせ、あんたには救ってやれぬ。あの男の中にある、恐ろしいほど深い沼を、共に堕ちてはいけぬ。なら、安っぽい心配など無用だ。
あんたの為に、あんた達のしがみ付く武士道とやらの為に、畜生道を落ちていくことを選んだ。正気なら、できぬ。
己のように、その道に生まれついた人間ならまだしも、あの男は、日の当たる暖かい道を歩んでいくことができたのだ。
挙句に、あんたの為にと選んだその道の上ですら、あの男は死ねぬかもしれぬ。
斎藤は、未だにそれを掴めぬ土方が、無性に歯痒かった。あれ程聡い男が、何故隣で長年大事にしてきた、家族と言って憚らぬ程近い存在の 変化に気付かぬ。他人に対して、初めて怒りというものを覚えた。気付かぬ男にも、気付かせぬ男にも。ただそれは、嫉妬に近いものだったかも知れぬと、 独り秋の空を眺めつつ自嘲した。愚かだ。己も、副長も、そして…あの男も。




「…陰気だなあ…。」

いきなり背後の障子がするりと開き、寝ぼけ眼な沖田が眩しげに眉を顰めながら誰に聞かすでもなくそう言った。

「小春日和というやつのようだがね。」

切り替えした声は、思索の海から思わず引き上げられてしまった動揺を、若干留めたに過ぎなかった。その背中を見つめて、沖田は声なく嗤った。

「お前の気配が陰気だと言ったつもりだがな、俺ぁ。」
「それはすまんね。」
「まあ、お前らしくていいかもしれん。」
「…どういう意味だい、沖田さん。」

江戸っ子は正直が売りでね。
そう言って沖田は芝居がかった渇いた声でかはは、と笑った。笑い声の終わりは、やけに咽た苦しげな咳へと変わった。
斎藤は気にするでもなく、背中を向けたままあてどなく空を見上げた。

明日など、来ぬ。
この世界に在るのは、生という今と、生きとし生けるものが等しく約束された、何時訪れるとも知らぬ、死。


朱に染まった葉が、ふわりと青い空に舞った。
肩越しに振り返った斎藤の瞳に、その暁の破片を薄い筋の中に留めた沖田の唇が歪んで映った。




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