その女が死んだのは、珍しく晴れた冬の日のことだった。
寄宿している倉沢家で暮す、三十路混じりの静かな女だった。聞けば、維新前…つまり会津がまだ藩として確固たる 地位を持ちあわせていた時代には、奥勤めの為、城に上がっていたというから、世が世なら己などとはすれ違いもしない家系の 女だったに違いない。それも、その藩という概念すら消えてしまった今日においては何ら意味を持たないものであろう。 見渡してみれば、その家にはそういった境遇の者が少なくは無かった。生まれも育ちも境遇も、其々が其々の歴史を抱えていて、昔はその道が 交わることなどほとんどと言っていいほど無かった。それが今、朝敵として追いやられた斗南で、一つ屋根の下、肩を寄せ合って暮らしている。 不思議な心持だが、同時にこの感覚には覚えがあった。皮肉にも、京へ上がったばかりの新撰組を思い出させた。あの頃は、そして最後の最後まで 新撰組には様々な出自のものが集まっていた。武士も居れば、己のように御家人の出のもの、商人に医者、表沙汰にはならないものの 凶状持ちも居ただろう。何を隠そう、己がその独りだった。江戸で人を斬って、上方へ落ちたのがずいぶん昔のことのような気がした。

人死が出たからといって大層な葬式ができるわけでもない。身内、といっても戦火で身寄りという身寄りを悉く無くした女だったので、他人だらけの家人のみで簡単な形だけの通夜をし、 明日荼毘に伏すことになった。女が床に臥して以来、涙混じりにその行く末を案じあっていた女連中も、死んでしまえばその後の手筈、準備等々に追い回され 感慨に浸るということも無いらしい。女は、強い。己と同じ、こういった家中の事に関しては何ら役に立つこともない倉沢家の当主がそう ぽつりと呟いたのが可笑しかった。

「まあ、そういう次第だ。斎と・・・一瀬君、悪いが今日は夜通しの番をお願いすることになるが、構わんかね。」

女ばかりのこの家で、恐らく己ができるのは、夜の線香番くらいだろうと思っていた斎藤は、黙って頷いた。山川の使いか大久保の呼び出しで急に東京へ発つような 事さえなければ、特にすることもない。元からそのつもりだった。

家族というものは、血縁だけで語るものではなさそうだということに、斗南へ移って気付いた。
俺は独りで生きて死ぬのだ、そう思っていたからこそ、妙な生への未練がないまま戦えた。いつでも死ぬ気でだからこそ 躊躇がない。簡単に言えば、死ぬ為に生きていたともいえる。しかしそれが結局、戦場で生き抜く秘訣のようで、大して生き残りたい理由があるわけでもなかった 己が結果的にこうして生きている。運命とは相当に皮肉だ。戦が終わって、己はどうしたものかと心中途方に暮れた。身の振り方に 迷ったのではない。何の為に生きたらいいのかが解らなかったのだ。思えば、生きる為に生きた経験が無かった。それほど、死に囲まれて 生きてきた。
そんな中、会津の人々に再び命をもらった。もらったというのは大げさな表現ではない。文字どうり、もらったのだ。
己を新撰組の斎藤一として新政府に突き出すことはいくらでも可能だったに違いないのに、此処の人間はそうしない。それこそ旧藩の 上層部の人間から、兵士、馬番、下女、関わりの或る人間全てが、己を会津生まれの会津の男だという。 挙句、その虚構を確固たる真実にする為に、残り少ない命の日々を己にくれた女も居た。その日々は、始めこそ斜に構えていた己の心に 初めての感覚を運んだ。斗南は、人が安寧の暮らしを送れる所ではとてもない。にもかかわらず、精神の底は平穏であった。

血が、家族をつくるのではない。縁と想いが人を結びつけ、家族という群れにするらしい。だからこそ、 託された思いを抱えて生きねば成らず、生き抜いてこそその恩に報いることができるのだ。同時に、己たちが敗者として演じた時代の回転劇 がどのように進んでいくのか、見届けてやろうという気にもなってきた。だからこそ、内務卿・大久保の申し出を受け、密偵になることを 承知した。以前の己なら、できぬことだとそう嗤った。人は、良くも悪くも、変わる物だ。だからこそ、人なのだ。

斗南の冬は長い。
体力の無い者、生きる意志の無い者、不幸にも病にかかる者。この季節に世を去るものは決して少なくなかった。添える花すら無い、殺風景な 座敷で、横たえられた死者の静かな輪郭を眺め身ながら、この女は、どのような気持ちで冥途を辿るのかとぼんやり考える。何の副葬品、見送るものも何一つ無いままあの世に 旅立っていく。文字通り、身一つだ。妻は夏に逝けて幸せだったかもしれぬ。何もしてやれないことには変わりなかったが、せ めて好きな花の一輪でもその胸に忍ばせてやることができたのだから。

夜が静かに過ぎていくなか、子の刻を回った頃に、廊下からひたひたと足音がした。
剣客の性とは悲しいもので、夢うつつでも無意識に刀に手が伸びる。見据えた暗闇の中から、見慣れた顔が姿を現した。女だ。

その女は、同じく倉沢の家に身を寄せて長い。この家を初めて訪れた日に、当主から何か家中のことでわからぬことがあればこの女に聞けと 紹介された。名を、高木貞といった。

驚いた。一度は落城前の城で、その次は東京からの帰り、寺の境内で子供達に文字を教えていた、彼の女だった 。時尾という名だけは覚えていたのだが、 また会うことになるとは思わなかった。己たちの間にはそれなりに縁というものがあるらしい。良縁か奇縁は測りかねたが、その女も己の 新しい名を聞いて少し驚いたようだった。しかし、それを言葉にすることなく、行儀見習いの手本のような折り目正しさで以後お見知りおきを、と丁寧な 礼をした。その様に、誰かに仕えるといった女独特の媚はなかった。ただ、その姿に嫌味や高慢さは微塵も無く、それはおそらく、 出自の割りに仕えられる機会の方が多い環境で生きて来たに違いないと思わせた。それもそのはず、 大目付の娘で、会津藩当主の姉君の寵愛を浴びた祐筆だったという。望めば、その主君に従ってこの斗南から脱出することもできる身の女だ。 何故だ、と胸中で思った。戦場の生死は劇的に遣ってくる。ある意味、運命の決定と実行が早い分、楽だともいえる。ここ斗南にあるのは、飢えと絶望の緩慢な死だ。それは、武家に生れ落ち た者にとっては屈辱とすら言っていい。最も武家らしい家に生まれ、武家の子女として模範的な人生を送ってきたであろうその女が、何故 未だこの斗南に居るのか。解らなかった。
しかし、あえて聞くほどのことでもない。関わりなきことに首をつっこむ性分でも無いし、こうやって顔を合わすということすら殆ど無かった。此処に移って以来、山川の使いで会津と 東京を行き来する生活が続いていた。妻を弔った後、そういう忙しさはまた救いでも会った。

「…あ、」

人が居たことに驚いたのだろう。貞は月の射す廊下で、ぎくりと歩みを止めた。
途端に、男の前に身を晒した己の姿を思ったのだろう。片手できゅ、と着物の喉元を合わせ、もう片手に握った何かを袖口に隠した。無造作に束ねられた髪の、後れ毛の向こうから、黒目がちな瞳が 戸惑うように煌いていることだけが見て取れた。

「…何か?」

そう発した己の声は、奇妙にしわがれていて他人のようだった。線香の香りがふわりと鼻を掠めた。
貞は何も言わなかった。ただ、意を決したように静かに黙礼し、柱に身を預けて座る己の横を通り過ぎて、死者の横へ静かに腰を下ろした。

他人の何かに干渉するのは得意ではないし、生きている女とも死んだ女とも親しいわけでもない。己は線香番だ。それ以外のことは目に留めぬ とそう思って、軽く目を伏せた。女が肩越しに此方を伺った気配が伝わった。

女は暫く言葉なく枕元に座ったままのようだった。しかし、少しして袖口から抱えてきたものを取り出し 、何かを施しているような空気がした。さらり、さらりと音がする。此れは、髪を梳く音だ。思わず、目を 凝らした。貞は、小さな声で、何か呟いていた。

「この黒髪は、皆の憧れでしたのよ、」
「一昨年の、お花見を覚えておいでかしら・・・」
「あの時の、桔梗さまの花簪が本当にお見事で…」

青白い月光が柔らかく差すだけの真っ暗な部屋で、死人の髪を梳きながら、女の背中が震えている。貞は櫛を握った手で、何度も死者の頬を撫でた。
粗末な浴衣に身を包んで、極寒の座敷に白い綿毛のような息を吐きながら、真っ白な手が握り締めたおそらくその女が持つ最も上等な 櫛で、死人の髪を梳くその姿に、斎藤は驚くを通り越して見とれてしまった。

単純に、その姿が・・・目に映る光景が美しいと思ったのだ。目がそらせなくなった。
その感情が、死者に向けられたものか生者に向けられたものかは解らなかった。しかし、その世界を全く別ってしまった二人の女に勝る 美は無いと思えるほどの衝撃だった。同時に、それは恐ろしくもあった。神域に触れてしまったかのような後ろめたさすらあった。 女は強い。そして、恐ろしいものだとそう思った。

「・・・貞殿、」

幽玄の彼方に押しやられそうな恐怖を押しつぶすように名を呼んだ。思えば、女をその名で呼ぶのは初めてのことだった。

「今しばし、ご容赦…」

貞は肩越しに、有無を言わせぬ声音でそういった。そして、つい、と音をさせて何かを指先にとり、そっと、身を屈めた。そして、遣ってきた時のように 、長いこと何も言わずに静かに死者を眺めていた。
斎藤の居る場所からは、貞の背中しか見えない。どのくらいの時間が流れたのかも曖昧になりそうだった。諦めて、月を見やれば中天に在ったそれは少し西の空へ傾きかけていた。 どのくらい時間がたったのか、それすら解らなくなるほどの、奇妙に濃厚な時があった。

「桔梗殿、お綺麗ですよ。源三郎殿も、さぞやお喜びでしょう。」

最後に、優しく語り掛けるようにそう言って、貞は立ち上がった。そして、同じようにまた、座したままの斎藤に静かに黙礼をして、ひたひたと来た 廊下を取って返した。闇の中に消えていく女の青白い素足と、一瞬垣間見た頬の上に残る涙の残像が、やけに脳内に焼きついた。斎藤は、目を 閉じて朝を待った。

朝日の中の死者には、薄く紅が引かれていた。弔う親族も、共に持たせてやるものも何も無い。身一つの旅立ちであるが、それでも女は幸せであったのだと斎藤は思った。
女の紅い口元は柔らかく微笑んでいた。



死者は安らかに荼毘に付されるべく出て行った。
手持ち無沙汰の斎藤の脳裏に、昨日の晩のことが何度も蘇った。朝方、手水場で鉢合わせた貞は、何事も無かったかのように、 何時ものごとく当たり障りの無い 微笑を称えて軽く頭を下げた。あれは、夢だったのだろうかと、己にしてはらしくないことを考えた。が、現実、死人には綺麗に死化粧がなされており、 それはやはり貞という女の仕業に違いなかった。

葬式にその女の姿は無かった。
貞が桔梗を抱えて髪を梳いていた時、どちらの女が死んでいて、どちらが生きていたろう。 当たり前の答えがでてしかるべき問いを、斎藤は果てしなく繰り返した。



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