待宵


人を待つのは得手ではない。

特に宵の口はいけない。光と闇とがじわりじわりと鬩ぎ合い、やがて光がその権勢を闇の圧力に弱まらせていく 中で、ただぼんやりとあてどなく人を待っていると、何かの拍子に異界へ振り落とされてしまいそうになる。焦燥と寂寥が交じり合ったような、妙な心持だ。論理のかみ合わぬ先の、心根の方でそう感じる己が頂けない。 だから、できればこんな時間に人など待ちたくは無いのだ。斎藤は闇に溶けていく自身の影を眺めつつ、小さく溜息を付いた。

如月の終わりとはいえまだ骨の髄まで冷える。今宵はことのほか冷え込みそうだ。そんな時分に外をふら付く馬鹿は少ない。物売りのか細い声音が 何処かの裏道から微かに聞こえてくるだけだ。
馴染みの芸妓のところにしけ込んでいた斎藤のところに、文が届いたのは夕刻のことだった。見覚えのある字が時刻と場所だけを示しただけの味気ないそれを、煙管を弄りながら暫くぼんやり眺めた。 布団の中は温かい。女の肌も心地よい。何が悲しくてこの寒空にと、打ち遣ってしまう事もできた。

ただ、斎藤はそうはしなかった。
気まぐれなその同部屋の男は、相手の都合など全く考えずに人を呼び出す癖がある。 しかし、無碍にできない奇妙な無邪気がある男でもあった。そんなものに振り回されるうち、困ったことだ、とそう受け止めるようになっていた。その日も潔く諦めて、指定どうりに 斎藤は沖田を待っている。

真綿のような溜息が、何度か闇に消え、そろそろ本格的に体が冷えてきたと思った頃に、闇の奥からやぶから棒に人が現れた。
明かりも持たず、焦るようでもなく、ゆったりとした歩調でやってきた沖田その人であった。

「待たせた。」

待たせることになるだろうと解っていたので、その声音に謝罪の色は無かった。待たせるつもりで時間を指定したのだ。沖田は斎藤を待たせるのが好きだった。
待たされた方も、待つことになるだろうと解っていたし、おそらく相手がそのつもりで文を書いたのだろうと知っていた。待たされるのは苦手だといいながら、 受け入れてしまうようなところが斎藤にはあった。
他人がみれば、首を傾げてしまうような当然が、二人の男の間には自然に存在していた。

「・・・で?」
「ああ・・・」

寒い寒いと独り言ちながら、かといって急ぐでも無く沖田は歩を進める。斎藤もそれに続いた。そろそろ夕餉の時間だ。垣根の向こうから、、 暖かい光と優しい薫りが漂ってくる。夜の始まりはかくも穏やかなものであった。

二人は暫く無言で歩いた。互いに何処へ向かっているのかと尋ねることも無かった。
何処であろうと、構わぬ。どうせ最後は地獄 の底だと、二人はよくそう言って笑った。常の様にその日も、当所なくそぞろ歩くのみだった。

「明里が来た。」

思い出したように紡がれたそれに、斎藤の眉がひくり、と上がる。そして盛大な溜息をついた。

「永倉さんか。」
「そんなとこだな。」

また暫くの間、言葉が途切れた。

「罪なことだ。」

何を罪と意味したのか、斎藤は言わなかった。が、沖田にはその意図が痛いほど解った。
最も愛しいと思うものと、死の直前に会う。それが、どれほど生への執着を加速させるだろうか。どれほど、未練を残すだろうか。
俺なら御免だ。死ぬ時は、独りで静かに死にたい。愛しいものを残して逝けるほど俺は強くないし、それこそ死に際に無様に足掻くことになる だろう。己の弱さを知っているからこそ、死という果てしない恐怖と向き合うときは独りがいいのだ。
京洛の鬼と呼ばれる、己より少し高いところにあるその愛想の無い面の向こうにも、同じような思いがあるに違いない。沖田の唇が歪んだ弧を描いた。

「・・・で?」

斎藤は、同じ問いを繰り返した。
それは、聞きたいと欲する答えはまだ為されていない、と暗にそう告げていた。
ほとりほとりと、二人分の草履の音が宵闇の京に響いた。

「逝ったよ、山南さん。」
「そうか。」
「ああ。」

言葉にすれば、それが現実だと認識できる。沖田は懐手にしていた手をごそりとだして、掌を透かすように夜空に浮かべた。

斎藤は、横目でそれをちらりと見遣る。山南の介錯をしたのは、誰あろう沖田のその手であった。そうなることを知っていたからこそ、非番を口実に昨晩から屯所には戻っていない。 下世話な感傷で他人に干渉するのは嫌いだった。
斎藤は山南を尊敬に足る男だと思っている。付き合いも長い。が、特に親しかったわけではない。だからこそ、今際の際に、といったことは蛇足だとそう思った。
斎藤は思う。己のようなものが現れても、山南の時間を無駄に奪うだけだろうし、らしくない行動は余計に山南自身を、ひいては己自身すら 妙な感傷の渦に追いやるに違いない。それは、互いの為に良くない、と。
その日訪れるのが今生の別れだからこそ、改めて距離を測る。勤めて、常態のように振舞う。それが、斎藤という男なりの、山南に対する礼節であった。
だから、山南に会わずにいたことを後悔してはいない。してはいないが、喉元の奥の辺りがどうも治まりが悪い。後ろめたさでは無い。寂しさではまして無い。
表現にも遣り場にも困る不可解な情動を抱えて、斎藤は静かに途方に暮れる。だから、宵の口に人など待ちたくは無いのだ、と言い訳のようなものを噛み殺した。

突然、思い出したように寒みぃ、と呟いて、夜空にかざした掌を再び懐手に収めた沖田ははたりと歩みを止めた。そして、そのまま己を追い越した斎藤の背中に決定的な一言を投げた。

「死んだよ。」

欲しかった答えを、呉れてやる。
そして、自身を納得させるかのように、もう一度、死んだと呟いた。

その言葉に、斎藤はひたりと歩を止めた。
屏風のように真っ直ぐな薄い背中が、そうか、とそう得心した感を漂わせた。沖田も、それで満足した。そしてその話は、その後二人の口に上ることは 無かった。

やああって、どちらとも無くまた歩き始める。

「俺もあんたも、何時か死ぬ。」
「そうだな。」

皆、何時かは死ぬる。
豊かであろうとなかろうと、善人であろうと悪人であろうと。
とかく現世は不条理で不平等なものだが、神なり仏なり運命なりは、ある一点において人を平等にした。 人は、生まれた時から死に始める。そして、何人たりもその訪れを知ることも、ましてや避けることもできない。

それでも、
人は、より良く生きたいと望むものだ。

二人は、何時来るとも解らぬその一瞬に、暫し思いを馳せた。
互いの口から、魂のような形をした息が、時折空に放たれ、そして消えた。

「俺が先だろうなあ。」

突然放たれた沖田のその言葉に、斎藤は首を傾げて見せた。

「…年上だから、な。」

大して変わらんくせに、とそう思いつつ、斎藤は黙した。根拠があるわけでもない途方も無い話を、沖田は好んで斎藤と話した。
真面目に相手にしていると、とんでもない所で煙にまかれて、酷い目にあったりする。斎藤にはその経験が嫌というほどあった。今回も、どうせ碌でも無いことを考えているに違いないのだ。真面目に相手にするのは 馬鹿馬鹿しい。だからこそ、沈黙を選んだ。
そんな斎藤を横目で眺めつつ、沖田は首の裏を掻きながらだらだらと話し続けた。

「何時も待たせてばかりだからなァ。」
「・・・。」
「三途の川原で婆ァと話でもしながら、のんびり待っててやるよ。」
「待っているのがあんたと奪衣婆なんざ、ぞっとしないね。」

馬鹿馬鹿しい、と解っているのに、矢張り相手にしてしまう。
斎藤にはそういった不可解ところもあった。

「彼岸に甘処はあるのかねぇ・・・」
「あんた・・・」

流石の仏頂面も本格的に呆れたらしい。溜息と供に射るように遣られた琥珀の双月とその痩せた面を視界の端に収めて、沖田はからりと笑った。
そして静かに、呑もう、とそう言った。

沖田に答える声はない。ただ、儚く伸びた細長い影が、こくりと頷くのが目に留まった。十分だった。
待ちかねたように音も無く粉雪がふわりと舞い降りて、鼻先を掠める。二人は示し合わせたように、同時に夜空をゆるりと見上げた。星も月もない。潔いほど漆黒の空間が其処にはあった。
静かに夜が更けていく。
昨日のように。そしてきっと明日も。様々な形の死と、そして生を内包してなお、今は続いていくのだ。
その日、二人は随分長いこと、そうやって光の無い天涯を眺めた。






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