甘雨


あら、春がきましたよ、と在らぬ方角に目をやって突然妻はやんわりと微笑んだ。

同じ方角を見つめてはみたものの、己には一体何のことだか全く容量を得ぬ。室内には火鉢が置かれているし、 時折強く吹く風がかたかたと戸をゆらし、硝子越しに見える空はどんよりと鼠色で、その何処にも春の欠片を見ることはできない。
だが、妻がそういった・・・己には見えぬ何かに対して言葉を紡ぐ時、かなり高い確率でそれらは現実のものとなる。 そう経験から学んでいる斎藤は、沈黙したまま視線を読みかけの冊子へ戻した。途端に、ばさりと前髪が落ちてくる。家に居る時は、洗い晒しのまま あまり構わずおくのだが、実は何かと不便だ。いっそ思い切って切り落としてしまおうか・・・。そんなことを考えつつ、緩慢な動作で項をめくった。

久方ぶりに自宅へ戻った。つい数週前までは北の果てで、雪に囲まれていた。成程、東京は彼の地に比べれば相当に暖かいと言える。 がしかし、まだまだ風は冷たく、見上げる天涯は重く低く、警視局でも風邪をこじらせる者が多い。 実際、風邪など絶対に無縁だろうと思っていた不出来な部下はここ数日顔を見せないし、誰あろう 大警視殿も自宅で綿入れに包まって悶々としていると聞く。
ナントカは風邪を引かぬと聞くが、阿呆は例外らしい。そう独り納得して、斎藤は差し出された茶をのんびりと啜った。

此処・・・つまり自宅であるが・・・は時間の流れが外と違うように感じられる。
事実、妻は出会った時から時が止まってしまったのではないかと思えるほど若々しいままであるし、実際、 在宅している間は一日が恐ろしくゆっくりと濃厚に 過ぎていく。同じ一日でも、局詰めをしていればあっという間に過ぎて行く時間だ。気付けば3日や4日過ぎていたと思うことが多々ある。
だが、不思議なもので、その現象は此処でも見られる。 これだけ一日が緩やかに過ぎて行くと感じているにも関わらず、同じように、気付けば数日、ということが 往々にしてあるものだ。奇妙なものだ、と斎藤は思った。

何故かと自身に問うてみる。
単位としてではなく、感覚としての時間の流れというものは極めて主観的なものだ。同じはずのものを、その一瞬々々は異なると感じ、 しかしてそれらを総体的に見てみると同じように評価し、なおその評価に微妙な差を見出している。

我ながら要領を得ぬことだ、と斎藤は口角を上げた。
そして、つと煙草へ手を伸ばし、やああってその手を元の場所へと戻す。そういえば、自宅で己は何本煙草を吸うであろう。 意外なことにその量は、局にいる間の半数にも満たない。何故だ・・・。

その時、遠くからやってくる微かな音に気付いた。

はた、はた、

ともすれば聞き逃してしまいそうな、そんな小さな音。

ほら、とそう言って微笑む妻と目が合う。
春がやって来たでしょう。

そう語る瞳をぼんやりと眺めて思う。
その瞳に溢れるのは、未来へのおおらかな希望的観測であり、見返りを求めぬ期待であり、揺るがぬ安寧であり、計り知れぬ愛しみである。
これが、絶対的に此処の時間を別のものにしているのだと。これこそ、斬った張ったでは到底辿り着けぬ、 真の強さかも知れぬ。

この手で護り構築していると思っていたこの空間は、実はその己ごとこの女に抱かれて育まれているのだ。
改めてそう思うと、先ほどまでの疑問が不思議なほど簡単に解けた。
己は、此処が好きなのだ。
煙草に気をやれぬほど、一瞬々々を洩らすことなく享受したいと思わせるほど。

酔っている、とそう思う。
が、呑まずにこれほど甘美に酔えるのだから、言うことはない。第一、酒などではこれほど心地よく酔えるはずがない。
視線を冊子へともどす。ばさり、と前髪が落ちてくるが、構わぬ。どうせ、文字を追っているだけで頭に入っているわけではない。
それよりも、もっと楽しむべき今が、此処にはある。

時尾、と名を呼べば、なんです、と木霊のように柔らかい声が返ってくる。
春が来るぞとそう言えば、はいと頷いて窓の外へを視線を泳がす。

甘い雨ですね。春を呼ぶ雨ですから、きっと花の蜜のような・・・

其処まで言って、舐めてみたわけではありませんけど、と我に帰ってころころと笑い出す。
つられた様に、己の喉の奥が微かに鳴る。思えば笑う、ということも此処でだけ起こり得ることかも知れぬ。

遠雷が本格的に始まり、窓を叩く雨足も徐々に激しくなってきた。
雪が止み、雨が降る。たったそれだけのこと。 家に戻る、妻がいる。そんな、当然の空間。

凍てつく冬の向こうに、春が見えた。
そんな、気がした。







To the Postscript→




designed by {neut}