行く人

私が好きになったのは、寡黙で、強くて、優しい人。
尊敬していて、追いつきたくて、でもその人は私のずっと前を歩いていて、
一所懸命こちらから名を呼んでみても、黙ったまま、違う地平線を眺めている。
でもいつかその人が、ここに居る私に気が付いて、
歩み寄ってくれれば素敵だと、そう考えるだけで、私の心は温まる。
そんな凄いことが、あっさりできてしまう人。

私が嫌いになったのは、憎まれ口で、強くて、厳しい人。
触れれば切れるような、刃のようなその人も、私の世界とはまったく反対側に居て、
私が好きになった人と同じ地平線を見ている。
私がこちらでじたばたしていると、遠くから、
からかうような、困ったような不思議な視線だけを、
つくづく面倒といった態で、ぶっきらぼうに投げてよこす。
でもその視線で、私の心をさっと撫で、私に静寂をもたらすことができる人。


地平線の向こうから、戻ってきたのは一人だけ。
同時に消えたあの視線。
願いがかなった嬉しさと、失ったものの意外な大きさで、
私は嬉しくて悲しくて、そんな自分に驚いて、
泣いて、泣いて、

 そんなに嬉しいの。
 まだまだ子供ね。

そんな言葉をもらう度、私の涙は流れて、
仕舞いには、もう何故泣いているかも解からなくなって、ただただ、
湧き上がる涙を、止めた後のあの凪が、二度と来ないかもしれないという、
漠然としていて、それでいて確実な喪失感を、埋める術がわからないまま、
私は突っ伏して、己の肩を抱く。

愛しい人が戻ってきた。愛しい人だけが。

そうしていると、私の好きになった人が、
嫌いになった人が昔そうしたように、少し困ったような目で私を見遣って、
その大きな手を、徐に私の頭に乗せて、

 もう、いい。

消えそうに呟いて、不器用に撫でた。


私はその時初めて、
私が好きになった人と、嫌いになった人は、
全く違う形の、実は同じ世界の人で、
私の知らない空の下、私の知らない風に吹かれて、
だから好きになって、だから嫌いになったのだと、
それが解かって、

優しい人がくれた微かな仕草も、
厳しい人が投げてよこした皮肉も、
もし私が、あの時少しだけおおらかに大人だったなら、
そうすれば、そのどちらも受け止めて、笑い飛ばして、
今ここにある優しげで柔らかい手も、
記憶の中の、あの存外に細い容赦ない手も、
つかまえて、掻き抱いて、引き寄せられたかもと、
そんな夢のようなことを考えて、
泣いて、笑った。


そんな私を見て、
私が好きになった人は、
私の頭の上にあるその手を、どうしたものかと持て余しながら、
苦しそうに、慣れない唇を、慣れない形に歪めて、
できるだけ私を傷つけないように、
笑おうとした。

それは、
私が嫌いになった人が、
煙草を咥えた薄い唇に、時折浮かべた小憎らしい笑みと奇妙に似ていて、
私を少しだけ、暖めた。

世界中が貴方の消滅を告げても、

忘れてなんか、

やらないわ。






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