蛇行




「飽きもせずにまあ…よく降ること。」

長椅子にあつらえた木製の肘掛に軽く腰を下ろして、高荷恵は大きな窓の向こうでふわふわと舞う雪に目を遣った。
往く月から逃げる月へと移ろう曇天の空から、純白の結晶が降りてくる。急ぐでなく、止まるでなく。ゆっくりとそして着実に世界を覆っていく それに、心の底で揺らめく過去の日の影も消してはくれまいかと埒も無いことを願う。ありえないそれに、赤い唇が悲しく歪んだ。

それにしても、やけに高い天井だ。西洋式の建物が主流を占める官公庁の中でも、これほど高い天井を持つのはこの警視局だけではないだろうか。 それとも、その高い窓を背になにやら書類をしたためているやせた男の虚ろな姿が、そう思わせるのか。

「何故此処に居る。」
「アンタが呼んだんでしょうに。」

無視を決め込んでいた男が、やっと口を開いた。
それ自体は嬉しくも悲しくもないのだが、まあこの男なりに思うところがあるのだろう。斎藤一が饒舌でないことは知っていたし、 だからこそ沈黙は苦痛ではなかった。己も、おしゃべりな男は苦手だ。言葉は時々、心の奥をかき乱すから。

「死体安置所に呼んだつもりだったが?」
「行ったわよ。勿論。」

手持ち無沙汰の指で髪を梳けば、ところどころに白いものが混じっている。
その存在に恵は少しだけ眉間に皺を寄せた。

「粗悪な阿片紛いの薬物。過剰吸引ね。強制された跡はなかった。」
「お前が作ったものか?」
「まさか。」

鼻で笑って、言い放つ。

「あたしはそんな手抜きはしないわよ。」

高荷恵が阿片密造に手を染めていたのはかれこれ半年以上前のことだ。それにはそれなりの理由と成り行きがあり、現在の恵は下町の診療所で信頼される女医として口を糊して生きている。 が、その時生成された阿片は市場の奥深くへ流れ、その毒牙にかかるものも少なくない。事実、不審死としてあがってくる案件の中に阿片中毒を思わせるものが無いこともない。その後ろに、不可解な影が見えることもままある。 そのような場合、高荷は今日のように、差出人の無い文を受け取ることになる。時刻と場所だけが書かれたそれが、制服を着た狼からの召集であることを解るまでにそれほど時間はかからなかった。

「あんな、激性のモノは作らない。…作らなかったわ。」

密造に関わる日々の中、高荷は徹底して、濃度の薄い阿片を作り続けた。武田には、「客に濃度の高い阿片を一回吸引させておしゃかにするより、何度でも吸ってもらった方が金になる」といい含めた。実際、高荷の作ったそれは、はるかにその程度を超えて薄かったから、 習慣性を持たせるには相当数吸引させなければならなかったはずだ。それを見抜けたものは、たった一人を除いていなかった。が、その一人も、武田と袂を分かち、紆余曲折を経て現在は京都で小料理屋の亭主に納まっている。

「あたしの所見。この阿片に使われた材料を、残留物から考えうる限り推測してみたの。」

袂から出した小さな半紙を軽く放ると、それは引き寄せられるかのように、存外に細い指を持つ掌へと消えた。

「有効に使えるでしょ、アンタなら。」

もともとこの食えない男は、検死の為に己を呼んだのではない。
この所見を出させる為だ。高荷はその事を十二分に知っていた。
だからなのか、驚きもせずその紙片に目を走らせた斎藤は、黙ってそれをうず高く積み上げられた書類の山の一部にねじ込んだ。
用は済んだ。そう言うかのようにちらりと琥珀の瞳が高荷を捉え、あっという間に違う書類へと移った。

「キリが無いわね。」

降り続く雪のことかもしれないし、阿片の犠牲者のことかもしれない。
または、人というものの抱える業というものへの小さな呟きかもしれなかった。

「ほんと、よく降ること。」
「何を驚く。真夏に降る雪でもないだろう。」
「…あんた、意外とロマンチスト?」
「帰れ。」

剣呑なそれに、そうするわ、とひらりと手を振って恵は立ち上がる。
と、意外なことに、斎藤も立ち上がった。ソードラックと外套に手をかける。

「…何?送ってくれたりするの?」
「阿呆、独りで帰れん歳でもなかろうが。」

やっぱり操ちゃんは別格なのねえ、と笑えば、感情の一切無かった面の上に、不機嫌この上ない皺ができた。不思議な弱点があるものだ、人という生き物には。
斎藤は黙って恵の横を通り過ぎ、扉を開ける。そしてその音に駆け寄ってきた若い巡査に告げた。

「医局の先生がお帰りだ。」

失礼のないようにお送り差し上げろ。
そう事務的に告げ、振り返りもせず歩を進めた。そしてふと、思い出したように言った。

「帰れ。」

その背に、何処へと問えば、答えをくれるだろうか。
高荷には帰る場所など無かった。




雪がちらちらと舞っている。
誰かが、私を呼んでいる。白い雪の向こうから、時には小さく、時には大きく。それは、高荷の胸を掻く。
何処へ行って、何をすれば、この声は止むだろう。

(会津へ。)

去っていく薄い背中を見ながら、高荷はそんなことを思った。






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