文字のない文

口数の多い人ではありませんが、言葉は巧みに使うお人です。
特に、人様を怒らすとか、からかうとか、そういった悪趣味を得手としているようですが。
あの人の言葉に顔色を失う方々を、何人見てきたことでしょう。

ええ、私も、何度あの意地悪な口をつねってやろうと思ったか知れません。
もちろん、そのようなこと、できるわけもないのですけど。
それに、本心から傷つけてやろうなどという心つもりは無いようですし。生まれ持った性質というか、素直じゃないというか、いずれにせよ厄介なお人です。

一緒になった頃は、まあ私共も、まだまだ若かったのですね。よくからかわれましたよ。

あの人は、ふとしたときに、思いも寄らぬ艶のある言葉を吐いたりするのです。
私はその都度、顔を赤くしたり青くしたり、今思い返しても、みっともないほど取り乱したものですよ。
あの人はそんな時、少しだけ目線を下げて、私を優しく見て笑うのです。
滅多に笑わぬお人ですから、私はからかわれた腹立たしさよりも、その毒の無い微笑に、あっけないく胸を射抜かれてしまって。
そのうち、あの人の言葉にも多少慣れてしまったのですけど、あの微笑見たさに、私もずいぶん大げさに怒って見せたりもしたものです。


いつの頃の事だったでしょう。
あれはそう、薩摩で戦が始まる少し前でしょうか。そろそろ立春を迎えようかという、やけに肌寒い朝でした。
いつになく夫が畏まって言うのです。

『当分、このような暮らしだ。』

こちらも畏まって聞いたものの、要領を得ません。

その日、夫は珍しく夕餉前に帰ってまいりました。
その次の日も。またその次の日も。
計ったように同じ時刻に戻ってまいりました。
それで、やっと合点がいきました。このような暮らし、とは、世間様のご家庭のように、朝出仕して、その日の夕に戻ってくる生活だ、と。
それならそうと、はっきりおっしゃれば良いのに。
あれだけ器用な人が、妙なところで、こちらが困ってしまう程口下手なのですよ。


御一新があって、戦があって。
沢山の忘れたい事や、忘れられぬ事があって。
一緒になって東京に出てきて、大分と時が経っておりました。
あの人は仕事の事は全くといっていいほど私には話してくださいませんが、東京に来て以来、なかなか家に落ち着くということの無かった人でした。

あの人が新しい傷を作るたびに届く、新しい制服。
私はその都度、血の気が退く思いをしたものですよ。

ですから、いつかわからぬ夫の帰りを、ただじっと待つしかない私の生活には、漫然とした、そこはかとない不安がいつも影を落としておりました。

その夫が、当分の間は毎日帰ってくるというのです。

どこかで、一時の事と解かっておりました。あの人に、そのような生活が長く許されることはないだろう、と。
それでも、冷めていく食事をぼんやり眺めたり、清々しい朝日の下のまっさらな寝具を片付けたり、そんなどうしようもない心許無さを、その一時の間だけでも忘れられる。
これ以上の幸せはないと思いました。


そんな、夢のように穏やかな日々が続いたある日、やけに帰りの遅い夫を迎えに、私は停車場へ歩いていきました。夕方から雨が降っておりましてね。夫は傘を持たずに家を出たものですから、どこかで雨を凌いでいるのではと思ったのです。

思ったとおり、夫は停車場のそばにある商家の軒先で、ぼんやり煙草をふかしておりました。そして、私を認めるなりこう言ったのです。

『待ちくたびれた。』

私は笑ってしまいましたよ。
夫は、私が来ることを何故か解かっていた、というより何の根拠もなく勝手に期待して、ここに長々と突っ立っていたというわけです。

私が来ないとは、思わなかったのですか。
呆れてそう問うた私に、夫は勝ち誇ったように私を見下ろして言いました。

  『お前が来ないわけなかろう。』

雨は降り始めより幾分激しくなっておりました。
育花雨、というそうですね。冬の終わりに降る、花を育む雨だそうです。
その力強く、それでいてどこか優しげな雨音を聞きながら、私は、夫の煙草の煙が空に消えていくのを、不思議と満たされた気分で眺めておりました。


しばらくそうしておりましたが、夫は吸っていた煙草を徐にもみ消すと、私の傘を取りました。女物の、小さな橙色の傘です。
あら、貴方の傘はこちらですよ、ともう片方の手に持った男物の傘を差し出すと、夫はそれを、白い手袋をつけたままの手で黙って制しました。そして私の傘を、同じ軒下の端で雨を凌いでいた、年の頃なら10歳くらいの、おかっぱ頭の小さなお嬢さんの目の前に、ぬ、と差し出しました。

お嬢さんはたいそう驚いた様子で。
それはそうでしょう。あの人はお世辞にも愛想のいい人ではないし、なにせ制服に帯刀でしょう。大人でもちょっと怖い思いをするものです。ちら、と夫を見るなり、真っ赤になった顔を伏せ、小さな頭を、黙ってぶんぶん横に振っておりました。

『そら、使え。構わん。』

夫は、…まあ夫にしては比較的やわらかい口調でそう申しました。それでも、お嬢さんは顔を上げません。細い肩が少し震えて、泣いてしまうのではないかと、私はひやひや致しました。

私が夫を見遣ると、夫は私になんとかしろ、と、その琥珀糖色の瞳で言いました。
仕方が無いので、私は傘を受け取り、夫が少し距離を置いたのを見計らってその女の子の前に屈んで、小声でこう耳打ちしました。


『あの小父さんは、私と一緒の傘に入って帰りたいのですよ。
 でも、傘が二つあっては、そうはできぬでしょう。
 かわいい小父さんを助けると思って、お使いなさいな。』

お嬢さんは、きょとん、となさって、私の顔と、夫の横顔を交互に眺めました。
夫は聞いているのかいないのか、まったく興味がないといった様子で、廂から線を引くように流れてくる雨を、睨むように見ておりました。

私が再度促すと、その子は少し考えた後、消え入りそうな声で、ありがとうございますと言って、おずおずと私の傘に手を伸ばしました。 そして私の目を見て、少しだけ笑いました。
小さくても、女ですもの。お嬢さんは、私の望みをちゃんと察してくれたようでした。


お嬢さんが、少し穏やかになった雨足の中に消えていくのを二人で見送って、私共は家路につきました。
一つ傘の下で、ね。
私達は、互いを庇い合う様に身を寄せておりました。時折私の肩が夫の腕に触れて、その度に煙草の香りが雨に溶けて、そんな何でも無いことが、私にはとても愛おしいものに感じられました。

なのに、同時に、えも言われぬ心持になって。
嬉しくて、くすぐったくて、燃えるように、悲しいような。
あれは、そう、”切ない”と言うのでしょうか。

その何とも言えない空気を失いたくなくて、しばらく無言で歩いていたのですが、夫が思い出したように、つとこう言ったのです。

『お前は、できた女だな。』

私は、またいつものようにからかわれたのだと思ったのですが、案外夫が真面目な顔をしているので、まじまじと、いつもよりぐっと近くにあるその痩せた横顔を見つめてしまいました。
すると今度は、いつもは皮肉ばかり吐いているその唇が、小さく、小父さんはないだろう、と拗ねたように言ったのです。


あの人は、なかなか本心を申さぬ人です。いえ、申せぬ人なのかもしれません。
でもその時の言葉はどちらも、何故か飾らぬ本音のように思えました。
故に、はい、と言って良いものか、すいませんと謝るべきか。

どう答えて良いのかわからないので、歩く度に、わずかに触れ合う指先を絡めて、そっと握ってみました。少しだけ間があって、夫の指は、やんわりと私を受け入れてくれました。
白い手袋越しに、夫の暖かさがじんわり私の心に染み入ってくるようでした。もう、夫の顔を見上げることもできません。私は、喉の奥が焼けるように熱くなって、その腕に軽く頭を寄せました。

触れれば、これほどに暖かい人なのです。
私は、心底この人を好いてしまったと思いました。


思えばあの頃が、私たちが、遅蒔きながらも本当の意味で夫婦になった時期なのでしょう。
夫はそれから少しして、鎮西へ向かいました。

あれから何日も、何晩も、夫の居ない日はやってきました。今もそれは続いています。

あの人と会うのは、半年振りです。
夫が出向いた北から、先日急に手紙を寄越しましてね。慌てました。
何の前置きも無く、突然、今日東京に戻るなんて書いてあるのですから。

ああ、あそこ。あの人ですわ。
背の高い人ですし、姿勢がよくて、粛々としていて。遠目でも、間違えるはずはございません。私の、愛しい方ですわ。

馬鹿だと、お思いでしょう。
でも、私は、どうしようもないほど幸せなのです。
途方も無いほど、救いようが無いほど、幸せなうつけ者なのです。

正真正銘、これが好いた弱み、というものですよ。
私はこうやって、死ぬまであの人に恋焦がれていくのです。






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