何処へも

雨は音と共にやってくる。が、雪は静けさと共に降る。

「京は、冬だな。」

唐突に漏れた言葉に、酌をしていた時尾はちらり、と目線を上げた。

「…と、申されますと?」

返事は期待しないが、とりあえず聞いてみる。
睦月も終盤になり、新年の喧騒が過ぎ去って、街も落ち着きを取り戻したようである。

斎藤は、時折時尾と二人で酒を嗜む。
さしつ、さされつ、特にこれと言って話すことも無く、ゆっくりと、ただお互いを横に感じながらの酒は、思った以上に心地よいものだと、結婚して知った。

その時尾は、少しばかり赤く染まったその頬に軽く片手をあて、考えるような素振りを見せた。珍しく口を聞いた夫。それも、京など、滅多に出る言葉ではない。夫にとってその地は、言葉では言い尽くしようの無い峻烈な過去を抱えているはずであった。

「なぜ、京なのです?」

時尾は酌の合間に、再度そう問うた。夫の言葉が、思いのほか温かい響きがしたからで、なんとなく今なら聞いてもいいかという気になった。斎藤は杯に満たされた酒を眺めている。

「何故か冬になると京を思い出す。それも他愛の無いことばかりだ。」

そう言って、一気に杯を干した。
不思議だ。京で自分が関わった事件や、戦や、そういった苛烈な記憶より、朝目覚めた時、障子に映っていた庭の木々の陰や、朝餉に向かう隊員の足音、道場で竹刀がぶつかり合う響き、同胞との会話、そんなものを思い出す。

「冬の日の思い出が多い、ということなのでしょうか。」

時尾はそう問うてみる。そして夫の杯を満たし銚子を戻すと、それはあっという間に夫の手に渡る。
銚子を持ち上げ、軽く傾けて時尾に差し出す。お前も飲め、ということらしい。
もう、ずいぶん頂いているのですけど。そういいつつ、夫から酒を受ける。
庭に目をやると、夕方から降りだした雪がもう一面を白く包んでいる。会津や斗南のような激しい吹雪はここには無い。ただひたすら、ゆっくり静かに、深々と白い結晶がこの地に降りてくる。身を切る様な寒さがそこにあるはずなのに、この静寂はどこか暖かいように思う。それは、きっと、自分が独りでないからだろう。

そこで時尾はふと思う。
夫はどうであろう。

「…どうだろうな。」

己が発した問いと、発しなかった身の中の問いと、どちらにも当てはまる答えに、何故からしいと思って時尾は微笑んだ。

「私にとって、京はいつも花と共にあるように思われます。」
「…して、その心は?」
「私の思い出す京の風景には、いつも花木があるのです。些細なことですけど。」

春ならば仁和寺の牡丹桜。八坂神社の枝垂桜。勝持寺も大変美しい桜の名所。
初夏にかけては蓮華王院のツツジ。勧修寺の蓮もよろしゅうございますね。
秋は、燃えるような紅葉。二尊院の参道も見事ですが、私は円光寺のお庭が好きですわ。
冬は、椿が良いですわね。雪があれば、なお良うございます。ああ、あれはどこだったでしょう…。

日頃あまり多くを話すことの無い時尾が、やけに嬉々として話すのを横目で眺めて、斎藤は問うた。

「行きたいのか、京へ。」
「…貴方様は?」

斎藤の、空いた杯を満たしながら、時尾はそう返した。

「貴方は、私と京へ行って見たいとお思いですか?」

京に。独りきりの貴方ではなく、二人で。
斎藤は答えない。黙って杯の中の酒を、飲むでもなくじっと眺めている。
おそらく、面倒ごとに巻き込まれず、なおかつ妻の機嫌を損ねぬ言葉を捜しているに違いない。仕事の性質上、この男に“約束”が許されないことを、時尾は痛いほど知っている。

己の問いは、どうやら少し夫を困らせているらしい。
酒の手も止まるほど、真剣に考えているらしい斎藤の横顔に、時尾はそっと顔を寄せ、なにやら小さく囁いた。

斎藤の眉が若干上がり、そしてゆっくりと時尾の顔に向ける。正面から見据えた漆黒の瞳に己が映っているのが見えた。そしてその深い黒色の瞳が柔らかく笑みを湛えるのをまじまじと見つめる。女という生き物は不思議だ。刃を用いずとも、これほど容易く男の息を止めることができるのだ。
己はこの生き物には、一生勝てぬかもしれない。

二人はどちらとも無く、互いに杯を軽く掲げた。



“私は、貴方となら、何処へでも。”






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