歪な領域
あの男は、全くどうでもいいといった態度で、
誰よりも綿密に、頭にくるほど正しく世界を把握している。
だから、己が此処に居ることなど、ずっと前から解かっていたに違いない。
「…睨んだとおりだな。」
暗闇からそう呼びかけた男を、斎藤一は無視した。察しは付いている。
こんな解かりやすい馬鹿正直な気配を発散している阿呆は、あの若造くらいだ。
もともと無視されることを解かっていたのか、それとも単に慣れなのか。その男は歩く斎藤の2,3間後ろをぶらぶらとついてくる。
「お尋ね者がわざわざ会いに来てやったんですが、オマワリサン。」
「…ずいぶんと豪勢に手配されているそうだな。」
「お前は、逮捕とかしねえの?」
「俺の任務は、“逮捕”じゃないんでな。」
成程、ちげえねえ。
そう言って、相楽左之助は笑った。
視界が少しだけ明るくなった。月は出ているが、風が強い。流れる雲が、時折月を隠し、また突然、世界に虚ろな光をもたらす。秋の到来を告げるそれが、其処此処の木立を低く騒がせていた。所在無くその雲の流れる様を見上げつつ、左之助は目の端で痩せた背中を追う。
「…で、何の用だ。」
斎藤は徐に聞いた。振り返りもしないし、歩むことも止めない。まるで独り言のようだった。聞かれた左之助は、何故か何も答えない。いつもは噛み付くように話す男が、黙って斎藤の後ろを付いてくる。
その間も、月は気まぐれに、世界に明暗を運んでいた。
「あんたに、…頼みがある。」
唐突に発せられた、この若者を知るものなら、平生からは想像も付かない殊勝な言葉に、ほお、と斎藤は興味なさげに相槌を打つ。間髪入れずに、左之助が言った。
「あんたのさ、間合いに、ちょっと俺を入れちゃくれねえか。」
斎藤は直ぐには答えなかった。歩むのも止めない。
幾分間が空いて、溜息混じりに答えた。
「何を訳の解らん事を言っている。とっとと消えろ。」
「間合いの中じゃねえと、駄目なんだ。」
心配しねぇ、俺、丸腰だから。
左之助がそう呟く様に言うと、斎藤は遂にその歩みを止め、肩越しに左之助を見据えた。そしてそれは、心の深遠を探るように左之助の双瞳を射抜いた。
放たれた光。その色は嫌というほど知っている。
左之助は、その琥珀の色に初めての邂逅を重ねていた。己はこの男に、人生最大の敗北を喫した。以来、常にこの男には先を行かれている。
加えて、完全に阿呆と突き放してくれるならいいのだが、稀に妙に解かりづらい助言などもする。そしてそれが強ち間違っていないときている。
勝敗や経験だけを語るなら、この男との関係は、盟友・緋村と己の関係に似ている。どちらも幕末の血風をその身をもって潜り抜けた剣客で、どちらにも悔しいが、徹底的に敵わない。
だが、緋村に感じるそれとはまったく違う感情を、己はこの琥珀に抱いている。
絶対的な敗北感。だからこその劣等感。それゆえの反目。
会うたびに繰り返される己の反発が、子供じみた反応だとわかっていて止められない。そんな己が許せない。
斎藤がゆっくりと振り返り左之助に向き合った。その、己を見下ろす瞳に何ら感情も読み取れない。
左之助は、ぎり、と奥歯をかみ締めた。ここで視線を外したら、己の負けだ。
二人の間を、雲の落とす影が川のように流れていく。
斎藤は、日頃から周囲に人を寄せ付けない。
そのことに左之助はずいぶん前から気が付いていた。志々雄事変でも、雪代縁事件でも、結果的に共闘することになったのだが、この男はいつも、全てから距離を置いたところに立つ。見えない境界線があって、此の方には来られないかのような、確固とした空間と距離がいつも其処にはあった。そのことを戯れに盟友に漏らすと、
『それは、間合いというのだ。』
彼はそう言った。
剣客にとって間合いとは生死を左右するほど重要なもので、抜刀後確実に仕留められる距離以内には、通常、他人を寄せ付けない。
だが、いくら剣客でない左之助でもそのくらいは知っている。だから何を今更、と思った。
すると、緋村は微妙な顔をして付け加えた。
『勿論、それだけのことではないのだろうな。あの距離は。』
こちらを向いた斎藤との間には、やはり冷たい隔たりがある。剣客の間合いというには広すぎるそれは、この男を別の世界の、別の生き物に仕立て上げる。だから、
「この、間合いを。詰めさせちゃもらえねえかな。」
指で、互いの間にある地面を軽く指して、問うた。
全てを拒絶するかのようなこの距離を越えねば、この男の本性は見えぬ。見えねばこの男を越えられぬ。明日は解からぬ追われる立場になって、初めて己が勝てなかった男に向き合って、見極めたくなったのだ。これは、拳を交えない勝負だ。
何故勝てぬのか。この説明のつかない憤りの源は何なのか。
何故、この男は発する言葉通りに、己を放り投げないのか。
期待通りの毒を吐いて、期待通りに遠ざけられて、何故その身を他者と交わらぬ彼方へと押遣るのか。問い始めれば、何もかもが解からない。
怪訝そうにこちらを見遣る斎藤の眉間には深い皺がよっている。いつも以上に不機嫌に見えるそれは、困惑と迷惑とどちらを示しているのだろう。
左之助は斎藤の答えを待たなかった。どうせ、諾などは期待していない。
そして、一歩、また一歩と、距離を確かめるように斎藤に近づいた。
薄い唇は弧を描くごともなく、何も言わない。その手も、正義を貫いてきた刃に伸びることも無く沈黙している。
一方の左之助も、視線を外すことは無い。そんな瞬間の連続が、濃く深く流れた。
手を伸ばせば触れられるかもしれない、そう思える距離に来たとき、左之助の足は止まった。愕然と、していた。
何の前触れも無く唐突に。
己の中の違う疑問に、迂闊にも気付いてしまった。
血が逆流するような熱と、水の中に突き落とされたような冷たさが同時にやって来て、左之助の動きを縛った。
己は、この男に関わりたいのではなかったか
この手を伸ばし、その身に触れる距離に立って、
この男に、認めて欲しかったのではなかったか
敗北感という、安易な根拠。
劣等感という、嘘。
それゆえの反目という、言い訳。
全てはこの身の奥の、晒せぬ望みから目を逸らすためではなかったか。
ならば其処にある距離は、この男に起因するものではない。
これは、己が作った間合いだ。
『それだけではない。』
盟友の言葉が、頭の中で警報のように大きくなったその瞬間、左之助は、不用意に縮めてしまった距離を後悔した。この男は、うんざりするほど勘がいい奴だから、己の中の、この男だけには知られたくない狼狽も、難なく見透かしているに違いない。にもかかわらず、その目は縛られたように逸らせない。
その時、己を写した鏡のように静かな琥珀が、不意に揺れた。少なくとも、その様に見えた。それは、左之助が初めて見た、斎藤一という生身の持つ感情の一片かもしれなかった。それがどんな感情なのかは解からない。何が斎藤をそうさせたのかも、己には想像が付かない。だが、何かが背を押した。そして今なら、と思った。理屈はいい、今なら、
今なら、届く。
左之助が、つう、と斎藤に手を伸ばした。
隔てた空間を侵食するように、しかし壊さぬよう緩やかに。
そしてその手は、制服の一寸ほど手前の空気を虚しく掻いた。
中空に彷徨う己の手を、まるで他人の手のように感じながら、ああ、やっぱな、と左之助はひとり薄く笑った。どこかで予想していたとはいえ、遣る瀬無かった。伸ばした指先が、じん、と痺れた。
己の身丈と向き合うのは、やはり心地のよいものではない。
特に、その身丈が、望みに見合わぬ時は。
俺の手はまだ、あんたには届かない。
もう一歩、いや半歩踏み込めば、きっとあんたに届くだろう。
でも、今はまだ無理だ。
今の、俺では、駄目なんだ。
左之助は、乾いた唇を少し舐めた。見つめる琥珀に、もう揺れはない。あれは月と雲とが作った一瞬の錯覚だったのか。今となってはもうわからない。しかし、それも、もうどうでも良い事のように思えてきた。
はあ、と長く息を吐き出す。気づいてしまえば、なんと簡単なことか。
しかし今、己の手が届いても、届かなくても、伝えておかねばならぬことがあった。死んでも言いたくない言葉ではあったが、これ以上、己を謀るのは嫌だった。それは、いつか言おうと思っていて、いつも言えない言葉であった。
会おうと思えばいつでも会える。世話になった女との別れ際に、己の発した言葉であった。それに嘘はない。だが、全ての瞬間が今生の別れになりうるということも、判らぬ子供ではなかった。後悔は、したくない。
思い切るように、大きく息をして、左之助は覚悟を決めた。
「俺は、あんたが生きてて、ほっとした。」
それだけは言っておきたかったんだ、畜生。
左之助はそう吐き捨てるように言って、伸ばした腕を仕舞い、睨みつけるように固めていた目線をようやく外した。そしてその足元を流れる、やけにゆったりとした雲の影を、どうしようもない気持ちで、数えるように眺め続けた。
すると琥珀が、ちら、と不思議なものを見るように、左之助を見下ろした。俯いた本人は、おそらく永遠に見ることの無いような温度で。いずれにせよ、それは直ぐに消えた。
盛大な嘆息と共に、斎藤の薄い唇は心底呆れたといったような低い声色を紡いだ。
「…阿呆が、そんなことを言うために、のこのこ出てきたのか。」
「俺にとっちゃ、重要なことさ。」
左之助は、唸る様に言った。斎藤との距離は変わらないから、声がやけに近い。自分から近づいたのだから、当然のことなのだが、そんな些細なことが邪魔して左之助は顔を上がられなかった。上げられぬばかりか、どう動いて良いかも解らなかった。畜生、と何度も口の中で繰り返した。
その視界に、突然白い手袋が現れた。
闇の中で発光するように輝くそれは、煙草を一本つまんでいた。
「付き合え。」
斎藤はそう言うと、やや強引に煙草を左之助に押し付け、自らも、もう一本煙草を取り出して、無造作に咥えた。
「…お前によく似た阿呆を知っている。」
斎藤は、呟くように言った。
へぇ、と左之助は応じた。煙草はあまりやらないが、押し返すのは憚られた。渡されたそれを口元へ運びながら問うた。
「どんなヤツでぇ。」
「とにかく歌舞いた、お前のように人の都合を考えぬ騒がしい奴だった。」
「で、そいつはどうなった?」
流れていた雲が、今は完全に月を厚く遮っていた。左之助からは、斎藤が見えない。
だが、シュ、と燐寸をする音がすると同時に視界が一瞬明るくなり、闇の奥から手袋をつけた両の手に守られるように炎が差し出された。促されるままに顔を寄せ、咥えた煙草に火を点す。
そのままつと目を上げると、明るくなった闇の一角の息を飲むほど間近に、同じように咥えた煙草を火に近づける斎藤の顔が見えた。
嫌になるほど見知った、渋い顔。しかし今それは全く違う男の顔のように見えた。そしてそれもまた、見極める前に、闇に溶けた。
弾かれた燐寸が、軽い音を立てて落ちた。
代わりに目の前で赤い小さな炎が灯り、それが呼吸するように点滅する。
先ほど己が縮めた距離よりもずっと、驚くほど近い場所で。
「死んだ。」
斎藤は紫煙を吐き出す軽い音と共に、そう言った。
「…が、最近その男が大陸で生きているとも聞いた。馬賊になった、と。」
そんな噂がでても、全くおかしくない呆れた奴だった。
言い放った斎藤の言葉自体は乱暴だったが、軽い笑いを含み、それを楽しんでいるかのようにも聞こえた。
左之助は、何も答えない。言葉という言葉が、全て身の中で燃え尽きたようだった。だから、大げさに煙草をふかした。吸い込んだ煙草の煙は、やけに甘く鼻腔を満たした。それは懐かしいような新しいような香りがした。
少しの沈黙があった。どちらも話さず煙草を吸った。
「…お前らのような阿呆は、殺しても死なんだろうから、」
何処へでも行ってしまえ。
最後にそう言って、斎藤は踵を返して闇に消えた。
別れを告げる言葉も無かった。
風に乗って流れてきた煙草の煙と、刀の鍔鳴りだけが、あの男が此処に居たことを証明しているようだった。そのどちらもが消え失せるまで、左之助は斎藤が向かった闇を見送った。
指に挟んだ煙草を見つめる。その火は赤く、暖かい。
躱された。見極められなかった。勝てなかった。それどころか、訳のわからぬ醜態を演じたような気さえする。
そして、最後の距離を縮めたのは、己ではなかった。
何もかも解かっているくせに、それを語らず、それを示さない。気づかせることを前提としない、いつものいけ好かないあいつの流儀。
かなわねえよ、なぁ。
左之助は独り言ちた。
しかし、焼け付くように激しい悔しさも感じない。妙にすがすがしい気分だった。
ついぞ馴染んだ事の無かった煙草を、旨いとすら感じていた。この味は、当分忘れないだろう。そして、この香りと共に、忘れてはならぬ事が沢山あった。
それらを飲み込むように、深く煙を吸い込む。あの男もこうやって、いろんなものを飲み込んできたに違いない。そんなことに思いを馳せた。
行ってみたい場所ができた。大陸か、悪くない。
いろんなものを見るだろう。いろんな奴に会うだろう。
そうすれば、いずれこの腕も、あいつに届く位にはなるかもしれない。
次に会うときは、間合いではなくその懐に入ってやる。俺の、この足で。
そして、その時は、あの傷だらけの腕をつかんで、真正面から、
今度は俺があいつの流儀に乗って、黙ってまるごと受け入れてやろう。
その目と同じ高さに立つ日には、俺はあの男に、
無理するな、と言ってやれるかもしれない。
あいつはそれを望まないかもしれないが、己がそうしたいと思う。
だからそのように、させてもらう。俺は人の都合を考えない阿呆だから、な。
そう考えると、やけに可笑しかった。
いつになるかはわからない。が、それほど遠い未来でもないように思う。
どんな顔するかな、あの野郎。
それまで、くたばるんじゃねえぞ、馬鹿野郎。
最後の煙を虚空に放って、消え落ちた煙草を見る。
あの男は、どうしていたか。確か、こうだ。
左之助は指を鳴らすように、煙草を闇へと弾いた。
途端に大きく風が舞って、厚い雲の間から、月が冷たく顔をだした。照らした世界のその先に、追った背中はもう見えなかった。
数日後、相楽左之助は大海への船出を迎える。
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