境界線
「夢を見たりはせぬか。」
唐突に発せられた言葉に、斎藤は軽く片方の眉を上げた。
長州の人斬りが明治を転覆させようとしている。
その出航を止めるべく大阪に向かう馬車の中で、緋村は山の端に沈み行く夕日を眺めながらそんなこと聞いた。聞きつつ、ああ聞くべき相手を間違ったか、などと思う。斎藤が己の言葉に答えるとは思えない。これから成すべきことへの話はしても、それ以外の事など発しはしまい。この男は、任務以外のことは、己と語る価値すら見出すまい。
その予想は外れた。
「…何故そのようなことを聞く。」
馬鹿にしたようでも、不機嫌そうでもなく。
斎藤は静かに問う。緋村は飽くこともなく窓の外を眺めている。
「拙者は最近夢をみる。」
「…斬る夢か。」
「いや。」
向けた横顔がやんわりと笑みを浮かべる。
「穏やかな、本当に温かい夢でござるよ。」
そう小さく緋村は呟いた。柔らかく弧を描いた口の端とは逆に、その瞳に笑みは無い。
暗く澱んだ色がその瞳の中で、静かに確実に沈殿している。
「そのうち、そちらのほうが現実のような気がしてくる。目が覚めて、また違う夢が始まったような錯覚があって…そしてそうでないことに気づく。」
そんなことは、無いか。
斎藤は黙っている。日本刀を抱いて、馬車の震動に身を任せている。
日は完全に山の向こうに落ち、その残り日がぼんやりと周囲を照らしていた。が、車中はなお暗い。その暗闇の中に、2人は溶けていた。お互い闇に溶けるのが似合いの生き物だと、緋村は考える。そういう意味では、馬車の屋根の上に居座って、飛ぶが如くと叫ぶ若者と己等は決定的に違っている。
数えられぬ程の命を、この手にかけた。初めがいつだったか、終わりがいつになるのか、それは己では解からない。解からないから、夢を見る。
夢の中の己は、平々凡々そのものだ。妻が有る。子がいる。誇るほどの豊かさは無いが、笑顔の絶えぬ、普通の暮らし。
その暮らしから突然目が覚める。醒めた世界の己は、どこまで血に染まっているかも解からぬ程に赤く、黒い。洗っても洗っても拭えぬそれは、己の業の深さを示している。そしてそれを証明するように、己に伝説の人斬りを見る者共が現れる。現に今、目の前に座っている狼がそうだ。
人斬りには戻らぬと言いながら、この男の琥珀の瞳を見るたびに血が猛る。そしてその都度、己の中の人斬りも、間違いなく己だと気づかされる。
この男はそれを解かっていて、黙って己の揺れを見ている。
決定打を与えず、刺激だけを寄越すから、始末に悪い。
「お主と一戦交えて以来、そんな夢を見るようになった。」
緋村は斎藤をちらりと見やる。薄闇の中の、漆黒の形。
斎藤はその中で薄く嗤った。
「…今更、だろうが。」
組んでいた細く長い腕が解かれ、両肘を膝の上に当てるようにして、斎藤はその身を少し前へと傾ける。闇の中に潜んだ影が、向き合った緋村の眼前に形を現した。
その瞳が、まっすぐに緋村を射抜く。
「それとも、逃げるのか。」
許さぬ。目を逸らすことなど許さぬ。
斬り捨てたのは誰だ。
血を滾らせているのは誰だ。
それを否定できぬのは誰だ。
「何もかも、貴様の過去の結果に過ぎぬ。抱えて生きられぬと言うならば、」
いっそそのまま堕ちてしまえ。
抱えた重みを味わって、澱みに沈んでしまえばいい。
目の前で、琥珀の鬼が笑っている。
その瞳が、
その唇が、
その声が、
己の否定しがたい負の衝動を駆り立てる。
その猛りに身を任せてしまえば、楽になるかもしれない。
しかし、己はそうはできぬ。そして、できぬ己の苦悶を一番知っているのは、この鬼だ。
「…斎藤。」
「何だ。」
「やはり、お主を斬っておけばよかった。」
光の中に乗り出していたその身が、す、と闇の中に戻っていく。
喉の奥で、くく、と嗤って斎藤は言った。
「…背中には気をつけろよ、抜刀斎。」
御者が、港が見えたと声を上げる。
それを契機に、互いの視線がかち合った。どちらも、冷めた瞳で柔らかに微笑んでいた。
そう、今更なのだ。
堕ちるも何も、既にその身は互いに闇に囚われているのではなかったか。
己も、此奴も、歩む道も映る風景も全く違う。それらは決して交わるまい。が、行き着く先はさして変わらぬ。
この男とは、長い付き合いになるだろう。幕末の京都で、そう思ったのはあながち間違いではなかった。
緋村は思考を振り切るように、窓を開ける。林立する帆柱は、抱えた命の墓標のようだ。
生ぬるい風が、互いを慰めるように温かく残酷にその頬を撫でた。
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